伝記
新神学者シメオンは、949年に小アジアのガラティアで生まれ、1022年3月12日に没した中世の正教会の神学者、神秘思想家、聖人である。生家は地方の貴族で、ビザンツ貴族に属しマケドニア朝を支えた家の出とも伝えられる。正教会で「神学者」の称号をもつ聖人は、福音史家イオアン、ナジアンゾスのグレゴリオスと、このシメオンの3人だけである。この称号は学問的な神学研究を意味せず、神を見る個人的な体験から語る者を称えるものとされる。
幼い頃は基礎的な学校教育を受けたが、11歳か12歳の頃、叔父がその素質を見抜いて首都コンスタンティノポリスに連れて行った。シメオンは皇帝バシレイオス2世とその弟コンスタンティノス8世の宮廷で教育を完成させた。14歳のとき、ストゥディオス修道院の素朴な修道士で、敬虔者とも呼ばれた老シメオンに出会う。この出会いを機に高等教育を断念し、老シメオンを霊的な師父と仰いだ。師父は修行者マルコの『霊的な掟』などを読むよう与え、シメオンはそこに深い印象を受ける教えを見いだした。すぐに修道院に入りたいと望んだが、師に待つよう言われ、27歳まで官吏として、あるいは有力者の家で働いた。昼は俗世の務めに就きつつ、夜は徹夜の祈りに励んだとされ、この時期に神を光として体験したと後の講話で語っている。
977年、念願かなってストゥディオス修道院に入ったが、あまりに熱心なため仲間に受け入れられず、数か月で院長に追放された。師父は隣の聖ママス修道院に彼を託した。そこで980年に司祭に叙階され、31歳の若さで修道院長に選ばれた。当時、聖ママス修道院は建物も修道者の霊性も朽ちかけていた。シメオンは約30年にわたり、25年ともいわれる長い期間、修道院の再建と修道者の霊的刷新に取り組み、その名声は多くの修道者や聖職者を引き寄せた。この間の霊的講話が主要な著作となって今に伝わる。
しかし波乱もあった。996年から998年のあいだに一部の修道者が反乱を起こし、総主教シシニオスの保護を求めて逃れたが、総主教は彼らを追放に処した。さらに1003年から1009年にかけて、ニコメディアの総主教ステファノスと論争になった。教会の位階制のもとでの信仰を重んじるステファノスにとって、神との親しい交わりを誰彼なく指導するシメオンは位階制への挑戦と映った。シメオンは悔い改めによって神性の現存を意識的に感じ取ることが重要だと考えていた。教会当局はステファノスに動かされ、1009年にシメオンを追放した。
シメオンはビテュニアに上陸してパルキトンという小さな町に隠遁し、廃墟の礼拝堂の傍らに、弟子の寄進で聖マリナ修道院を建てた。のちに総主教セルギオス2世によって追放は解かれたが、彼はその地にとどまり、弟子の指導と著述のうちに晩年を過ごした。多くの著作がここで書かれ、『神の愛への賛歌』『教理講話』『倫理論考』『書簡集』などが知られる。一部は観想的な祈りの文書を集めた『フィロカリア』にも収められた。主な弟子ニケタス・ステタトスが伝記を著した。自らの神秘体験を率直に語った最初の東方キリスト教の神秘家とされる。記憶日はユリウス暦の3月12日である。シメオンは、皇帝の保護と帝国の繁栄で形式化したキリスト教に対し、生きた経験に基づく信仰の本来の姿を取り戻そうとした。その霊性は新奇な熱狂ではなく、東方の教父たちの大きな流れに根ざしていた。
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