伝記
デメトリオス1世は、紀元前337年に生まれ、紀元前283年に没したアンティゴノス朝第2代のマケドニア王である。アンティゴノス1世とその妻ストラトニケの子で、攻城戦に巧みだったことから「攻城者」を意味するポリオルケテスのあだ名で呼ばれた。幼少期は父の宮廷で過ごしたとされ、紀元前321年には、父と同盟を結んだマケドニアの将軍アンティパトロスの娘フィラと結婚した。ディアドコイ戦争では父に従って各地で戦い、紀元前316年のガビエネの戦いにも右翼の騎兵として加わったとされる。紀元前315年にはシリアの防衛を任されて初めて独立した指揮を執ったが、紀元前312年のガザの戦いではプトレマイオス1世に敗れた。この敗北は、騎兵の追撃を抑えられなかった血気のためともいわれる。プトレマイオスは奪ったデメトリオスの財産を捕虜とともに送り返し、これに感服したデメトリオスも、のちに得た7000の捕虜を同じように返して借りを返した。その後、ギリシアを解放するという名目でカッサンドロスと戦い、アテナイやメガラなどを支配下に組み入れた。紀元前306年にはサラミスの海戦でプトレマイオスの艦隊を破ってキプロス島を手に入れ、この勝利を機に父とともに王を称し、ほかのディアドコイもそれに倣った。
紀元前305年にはロドス島を包囲したが、頑強な抵抗に遭って落とせなかった。ただ、その過程で多くの都市を攻略し、ポリオルケテスの名を得たとされる。翌年にはアンティゴノスとプトレマイオスの間で、ロドスが中立を守る和平が成立した。紀元前301年のイプソスの戦いでは、右翼を率いたデメトリオスが敗走する敵を深追いしすぎ、孤立した本隊の救援に回れないまま、アンティゴノスは敗死した。遺領は他のディアドコイに分割された。
イプソスの後、デメトリオスは娘ストラトニケをセレウコス1世に嫁がせて同盟を結び、失地回復をねらって再びギリシアに渡った。アンティパトロス朝の後継争いに乗じてカッサンドロスの息子たちを倒し、紀元前294年にマケドニア王位に就いた。しかし、かつての領土を取り戻そうと戦争と重税を重ねたため民心を失い、紀元前288年、プトレマイオスとリュシマコスの支持を受けた妻の弟、エピロス王ピュロスの侵攻に遭って国を追われた。
その後は小アジアに攻め込んでセレウコスと戦ったが行き詰まり、自らセレウコスに身を委ねた。セレウコスは影響力を恐れて彼を監禁したものの、狩場を持つなど、ある程度の自由はあったようである。デメトリオスは紀元前283年、シリアで獄死した。プルタルコスはマルクス・アントニウスと対比させて、情欲が強く酒好きで戦争を好み、気前がよく贅沢で、浮き沈みが激しい男と評した。容姿端麗で勇敢、友情に厚い一方、放埓で派手好き、傲慢な面もあったという。
家族関係は多彩で、最初の妻フィラとの間にアンティゴノス2世と娘ストラトニケが生まれた。ストラトニケはセレウコス1世に嫁いだのち、その子でシリア王となるアンティオコス1世と結婚した。ほかにアテナイのエウリュディケ、エピロス王アイアキデスの娘デイダメイア、シュラクサイの僭主アガトクレスの娘でピュロスの妃だったラナッサ、プトレマイオス1世の娘プトレマイスとも結婚した。プトレマイスとの間の子デメトリオスは、キュレネ王マガスの娘ベレニケ2世と結婚してキュレネ王となったが、ベレニケ2世に殺害された。このデメトリオスはマケドニア王アンティゴノス3世の父である。
同じ年に亡くなった人物
- カウティリヤ (紀元前283年没)
- Amastris (紀元前283)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル (紀元前283年没)
- アガトクレス (紀元前283)
同じ地域に関係する人物
- アーディル・キトブガー (1302年没)
- エウヌス (紀元前131)
- ムハンマド・イブン・イスマーイール (809年没)
- アブ・アル=フィダ (1331年没)
- ガイウス・ユリウス・サトゥルニヌス (281年没)