HISTORICAL PERSON · 1019年没

スヴャトポルク1世

キエフ大公。父ウラジーミル1世の死後、異母弟ボリスとグレブを暗殺したため「呪われたスヴャトポルク」と呼ばれ、弟ヤロスラフ1世に敗れて逃走中に病死した。

生涯
1019年没
死亡地
キヴィータス・シネースゲ
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

スヴャトポルク1世は、980年頃に生まれ、1019年に没したキエフ大公国の大公である。「呪われたスヴャトポルク」の異名で知られる。父ウラジーミル1世の没後、弟のヤロスラフ1世らと継承権を争い、一時はポーランド王ボレスワフ1世の助力でキエフ大公の座に就いたが、最後はヤロスラフに敗れ、逃走の途中で病死した。

祖父スヴャトスラフは、ビザンツ遠征の際に美しいギリシア人の修道女を捕らえ、長男ヤロポルクの妻として与えた。972年にスヴャトスラフがペチェネグ族に襲われて死ぬと、ヤロポルクは弟オレグとの争いを経てキエフ・ルーシの公となったが、980年に弟ウラジーミルの手先に殺された。ウラジーミルは兄の未亡人であったそのギリシア女性を自分のものとし、このとき彼女はすでに身ごもっていた。生まれたのがスヴャトポルクである。そのためヤロポルクの子ともウラジーミルの子ともいわれ、『原初年代記』は「彼は二人の父から生まれた」と記し、父は彼を愛さなかったと述べる。ウラジーミルの息子たちのうち最年長だった可能性もあるが、出自には疑問も呈されている。988年、スヴャトポルクは公としてキエフ北西の町トゥーロフに赴任し、ポーランド公ボレスワフ1世(勇敢王)の娘を妻に迎えた。王女にはコウォブジェク司教ラインベルンが随行してトゥーロフに来た。のちにウラジーミルは、スヴャトポルクがボレスワフと通じていると見て、妻とラインベルンともども彼を投獄したという。ラインベルンは獄中で死んだとされる。

1015年、貢税の支払いを止めた息子ヤロスラフを罰するために遠征の準備をしていたウラジーミルが急死した。『原初年代記』によれば、キエフの人々の一部にボリスを大公に迎える動きがあると、大公の座を狙うスヴャトポルクはヴィシェゴロドの貴族らにボリスの殺害を命じたという。ボリスは配下の兵が「スヴャトポルクを討つべきだ」と進言したのを退け、無抵抗のまま殺された。スヴャトポルクは続いて年若い弟グレブにも刺客を送った。ボリスとグレブはのちに列聖されている。一方、ノヴゴロドでこれを知ったヤロスラフは、市民とヴァリャーグ傭兵の支援を受け、1016年の晩秋にリューベチ近郊でドニエプル川を挟んで約3か月対峙した。湖が凍ってペチェネグの援軍を得られなくなったスヴャトポルクは敗れ、ポーランドへ落ち延びた。

1018年、ボレスワフ率いるポーランド軍の助力でヴォルイニでヤロスラフを破り、ヤロスラフはノヴゴロドへ退いた。しかしキエフを支配したのはボレスワフで、ポーランド兵は食糧を求めるとして居座った。スヴャトポルクは「町中のポーランド人を殺せ」と命じてボレスワフと決別し、ボレスワフは略奪品とともに引き上げ、その途中でチェルヴェンの諸都市を占領した。その後ヤロスラフ軍に襲われたスヴャトポルクはペチェネグへ逃れ、1019年にその大軍を率いてリト川付近で戦った。戦いは激烈で、夕方近くにヤロスラフ軍が勝った。敗走したスヴャトポルクはポーランドとチェコの間の荒野に落ち延び、病に伏して世を去った。ただし、殺されたとする見方もある。

殺害の責任については議論がある。1957年にイリインは、ボリスを殺したのはヤロスラフで、年代記の記述はヤロスラフの命で捏造されたと唱えた。福岡星児は一定の評価を与えたが、史料学的な不安定さを指摘して異議を唱える研究者もいる。

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