HISTORICAL PERSON · 1895年没

ニコライ・レスコフ

ロシアの作家・ジャーナリスト。『魅せられた旅人』などの小説で物語性豊かにロシアの風土を描いた。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はショスタコーヴィチによりオペラ化された。

生涯
1895年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ロシア連邦(Q23879935)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

ニコライ・セミョーノヴィチ・レスコフは、1831年2月16日にロシアのオリョール県で官吏の子として生まれ、1895年3月5日に没したロシアの作家・ジャーナリストである。M・ステブニツキーの筆名でも書いた。独特の文体と形式上の実験で評価され、トルストイやチェーホフ、ゴーリキーらから高く評価された。生活上の経験を生かして、物語性の強い数多くの作品を書き、主に短い文学形式で同時代のロシア社会の姿を描き出したとされる。父セミョーン・ドミートリエヴィチは尊敬された刑事事件の調査官で、地方の裁判所の官吏でもあり、友人から「手作りの知識人」と呼ばれたほど教養があった。母マリア・ペトローヴナは、没落したモスクワ貴族の娘で、父が家庭教師をしていた家で出会った。父方の先祖は代々、オリョール県のレスカ村の聖職者だったため、レスコフの姓となった。

最初の8年間は、母方の伯母が嫁いだ裕福な地主の領地ゴロホヴォで、祖母のもとで過ごした。地主の子どものために雇われたドイツ人やフランス人の家庭教師から教えを受けたが、ドイツ語教師がその才能をほめると、嫉妬した周囲との関係が難しくなり、祖母の頼みで父がオリョールに連れ戻した。1839年、父が県知事の怒りを買って職を失い、一家は家を売って50人ほどの農民のいる村を買ったが、借金で買ったその村は、結局、借金の代わりに手放された。残ったのは小さな農場と貧しい家、水車小屋、庭などだけだった。ここでレスコフは、のちに文学で復活させることになる口承の民話や、土くさいロシア語の方言に初めて触れた。1841年にオリョールの中学に入ったが、5年間成績が振るわず、2年間の修了証しか得られなかった。

1847年6月にオリョールの刑事裁判所の事務所に入り、翌1848年5月に一家の財産が火事で焼け、7月には父がコレラで亡くなった。1849年12月に、キエフの国庫の局に助手として移り、医学教授の母方のおじの家に住んだ。そこで大学の講義を聴講し、ポーランド語やウクライナ語、イコンの描き方を学んだ。1857年に役所を辞め、おばの夫のスコットランド人が経営する民間の商社に勤めた。1860年から文筆活動を始め、1862年から小説を書き始めた。1864年に最初の長編小説を、ステブニツキーの筆名で出した。代表作に『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1865年)、『僧院の人々』(1872年)、『魅せられた旅人』(1873年)、『左利き』(1881年)がある。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はショスタコーヴィチ、『魅せられた旅人』と『左利き』はシチェドリンによってオペラ化された。

ジャーナリストとして社会の矛盾を鋭く批判したため、当局にたびたび目をつけられ、検閲や出版禁止を受けた。正教会とその聖職者を風刺した後期の作品の多くは、発禁になった。農民への関心と共感ではトルストイと、宗教的傾向ではドストエフスキーと近いところがあり、1890年にトルストイと会って意気投合した。晩年は狭心症と気管支喘息に苦しみ、サンクトペテルブルクで没した。葬儀の際には、当局によって参列者のあらゆる演説が禁じられた。ヴォルコヴォ墓地の、文学者の区画に埋葬されている。

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