伝記
フレデリック・ダグラスは、1818年ごろに生まれ、1895年2月20日に没したアメリカ合衆国メリーランド州出身の元奴隷で、奴隷制度廃止運動家、新聞社主宰者、政治家である。編集、講演、執筆、政治家としての活動を通して奴隷制廃止論を唱えたアフリカ系アメリカ人の活動家であり、その強硬な姿勢から「アナコスティア・ライオン」などと呼ばれた。
メリーランド州タルボット郡で奴隷として生まれた。自身は1817年の生まれと思っていたが、生年は定かではない。母とは隔離されて生活させられ、彼が7歳のときにその母も死んだ。父ははっきりせず、彼の奴隷所有者であった白人のアーロン・アンソニーだろうとダグラス本人が語ったこともあったが、のちにそれも疑わしいことを自ら認めた。アンソニーの死後、12歳のダグラスはボルチモアの別の奴隷所有者のもとへ引き渡され、当時違法ながら、女主人に文字を習った。のちに彼女の夫に禁じられたが、街灯の下で使い古した教科書を使って勉強を続けた。読み書きを覚えたころには農場を出て、ボルチモアの造船所で都市奴隷として働いていたが、1833年に主人が死に、その後始末のために農場に送り返された。
1838年9月3日、奴隷の境遇から脱出を図った。船員服を着て、黒人仲間からもらった身分証を携えて列車に乗り込み、ペンシルベニア州フィラデルフィアを経由して、ニューヨークに辿り着いた。23歳のときにマサチューセッツ反奴隷制協会で初の演説を行い、反奴隷制大会の演説のため、6か月間アメリカ合衆国中を旅した。「皮膚の色・性別を問わず、人は皆平等の権利を与えられるべきだ」をモットーに、『ノース・スター』紙などいくつかの新聞を発行した。他のアフリカ系アメリカ人指導者に見られた、武力をも辞さない急進的な奴隷革命には、肯定的でなかった。黒人のわずかな武力で立ち上がれば、より大きな白人の武力によって徹底して潰されるのが常だったからである。
1845年の『フレデリック・ダグラス自叙伝;アメリカの奴隷』は、当時ほぼなかった黒人の出版の機会を得て、肯定的に迎えられ、ベストセラーになり、フランス語やオランダ語にも翻訳された。本国で有名になりすぎ、元の奴隷所有者からの告発を懸念してアイルランドに渡り、アイルランドやイギリスでも講演を行った。1863年には大統領リンカーンらと黒人参政権について協議した。南北戦争後は、解放奴隷救済銀行の総裁を務めた。環境がさほど向上しないと感じて失望した多くの黒人が、白人のいない黒人だけの街を形成していくなか、彼は「まだ諦めるな」と説き、一部の黒人から「理想と現実は違う」などと非難されることもあった。
各地で演説をしながら、コロンビア特別区の連邦保安官や、ハイチ駐在の合衆国総領事などを歴任した。1872年の大統領選挙では、公民権党が彼を副大統領候補に指名した。アフリカ系アメリカ人として初めての副大統領候補だったが、本人はまったく知らされなかった。「苦闘なくして前進なし」と語り、「ひとたび読むことを学べば、永遠に自由となるだろう」との言葉でも知られる。1999年に雑誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」にも選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- ソフィー・アドレルスパッレ (1895年没)
- ジョン・オサリヴァン (1895年没)
- クヌート・クヌーツェン (1895年没)
- フランツ・フォン・スッペ (1895年没)
- トーマス・ウェード (1895年没)
同じ地域に関係する人物
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- メアリー・ラスバン (1943年没)
- ウィリアム・ピンクニー (1822年没)
- アルバート・パイク (1891年没)
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