伝記
サロルトは、ハンガリー人の大公ゲザの妻である。950年ごろに生まれ、1008年ごろに亡くなったとされる。のちに初代ハンガリー王となるイシュトヴァーン1世の母として知られる。
父はトランシルヴァニアのジュラで、名をジュラ2世、あるいはゾンボルという。ジュラはハンガリー部族連合で大公に次ぐ第二の地位にあった。父は七人の首長の一人テテーニュ(トゥフトゥムとも)の孫にあたり、950年以降にコンスタンティノープルでビザンツ式のキリスト教に改宗し、ハンガリー初のキリスト教の布教拠点を設けたと伝えられる。家族や家中の者もビザンツ式の洗礼を受けたとみられ、サロルトも、結婚前に父の宮廷で司教の手によって正教の洗礼を受けたとされる。『ハンガリー人の事績』によれば、カロルドという姉妹と、のちのジュラ3世とされる兄弟がいた。名はテュルク系で、「白いオコジョ」を意味するという。
970年ごろ、アールパードの曾孫であるゲザと結婚した。これはゲザの統治の始まりでもあったとみられる。この結婚は、強大なブルガール人に対する同盟を築くため、父が整えたものかもしれないといわれる。夫妻には子が生まれ、ポーランドのボレスワフ1世の妻となった娘ユディト、ブルガリアのガヴリル・ラドミールの妻となった娘マルギット、ヴェネツィア総督オットー・オルセオロの妻となった娘グリメルダ、そして息子のイシュトヴァーン1世らが知られる。イシュトヴァーンは967年、969年、975年などの諸説がある生まれである。
サロルトは夫に強い影響力をもち、そのため政治にも影響を及ぼしたとされる。ゲザは晩年に健康が悪化し、サロルトが実権を握ったともいわれる。一方、カトリックの宣教師からは疑いの目で見られた。年代記には、際限なく酒を飲み、人を殺めたとまで書かれている。メルゼブルクのティートマルは、彼女が男のように座り、狩りをし、戦士のように馬を駆り、攻撃的な気性で、激しい怒りから男を殺したかもしれないと記したとされる。夫妻は晩年に洗礼を受け、息子の名をヴァイクからイシュトヴァーンに改めて、キリスト教徒として育てた。ゲザはキリスト教への改宗を進め、大公妃はこれを支えたという。
997年にゲザが亡くなると、遠縁のコッパーニュが、異教の伝統に従い、最年長の男子として指導者の地位を主張し、未亡人サロルトとの結婚も求めた。コッパーニュはイシュトヴァーンと争って敗れ、まもなくイシュトヴァーンがハンガリー初の王として戴冠した。サロルトの没年は定かでなく、セーケシュフェヘールヴァールの聖堂に葬られたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- メネンド・ゴンサレス (1008年没)
- ジョフロワ1世 (ブルターニュ公) (1008年没)
- Notker of Liege (1008年没)
- 花山天皇 (1008年没)
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