伝記
ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツは、1857年2月22日にドイツのハンブルクで、裕福で文化的な家に生まれた物理学者である。父は弁護士としてハンブルクの顧問を歴任し、のちに政治家となった。母は医者の娘で、3歳年下の弟と妹がいた。ヨハネウム学院に入ると、アラビア語やサンスクリット語の語学と同じように、科学への適性も見せた。ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで科学と工学を学び、1878年の夏にはミュンヘン工科大学で、気象学者のヴィルヘルム・フォン・ベツォルトの指導を受け、そのころから気象学にも深い興味を抱いた。気象学の業績は多くないが、液体の蒸発の研究や新たな湿度計の考案などの論文がある。キルヒホフとヘルムホルツの指導学生として、1880年にベルリン大学で博士号を取得し、その後もヘルムホルツのもとに研究生として残った。
1883年にキール大学の理論物理の講師となり、1885年にはカールスルーエ工科大学の教授となって、そこで電磁波を発見した。1886年から1889年には、後に接触力学と呼ばれる分野の論文を2編発表している。2つの物体を接触させて荷重をかけたときの振る舞いを、古典的な弾性体の力学で解いたもので、接触の基本的性質に関する多くの論文がこれを引用している。ガラスの球とレンズを接触させてニュートン環を観察する実験も行ったが、当時の彼は、2つの固体が接触したときの凝着力を全く無視していた。凝着力が無視できないことは、後に判明した。
電磁気では、電磁波が伝わる機構を見つけるために、マクスウェルの方程式を計算し直した。1886年に、接地されない端子群から成る「ヘルツアンテナ」受信装置を開発し、極超短波送信用のダイポールアンテナも考案した。1887年、電磁波の発信と受信の実験を行い、アナーレン・デア・フィジーク誌に発表した。発信装置は誘導コイルとアンテナを組み合わせたもので、受信装置はスパークギャップのあるコイルであり、電磁波を受信すると火花放電が観測できた。数か月間実験を繰り返し、マクスウェルとファラデーが予言した通り、電磁波が空間を伝播することを証明し、無線の発明の基礎となった。送信装置から12メートルの位置に亜鉛の反射板を置いて定常波をつくり、波長は約4メートルで、速度は光速に等しいという結果を得た。同じ1887年には、紫外線の照射で帯電した物体が電荷を容易に失う光電効果を見出した。
ヘルツは自分の実験の実用的な価値を理解していなかった。「単にマックスウェル先生が正しかったことを証明しただけの実験だ」と述べ、今後の見通しを尋ねられると「たぶん、何もない」と答えたという。1892年には、陰極線がアルミニウム箔のような薄い金属箔を透過することを示し、教え子のレーナルトがその研究を推し進めた。同年、激しい偏頭痛から感染症と診断され、何度か手術を受けたが、1894年1月1日にボンで多発血管炎性肉芽腫症のため亡くなり、遺体はハンブルクの墓地に埋葬された。
妻エリザベートは再婚せず、1930年代にヒトラーが台頭すると、二人の娘とイングランドへ移住した。娘はどちらも生涯独身で、直系の子孫はいない。甥のグスタフ・ヘルツは1925年にノーベル物理学賞を受賞した。1930年、周波数のSI単位に、彼の名のヘルツが採用された。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ・ホフマン (1894年没)
- ウジェーヌ・シャルル・カタラン (1894年没)
- ウィリアム・ハート (画家) (1894年没)
- Agostina Livia Picapiedra (1894年没)
- アマーリエ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ (1894年没)
同じ地域に関係する人物
- アンナ・カタジナ・コンスタンツィア・ヴァザ (1651年没)
- カール・アルブレヒト (2014年没)
- アルフレート・クルップ (1887年没)
- ヨハン2世 (クレーフェ=マルク公) (1521年没)
- ハインリヒ6世 (ルクセンブルク伯) (1288年没)