伝記
パフヌーティー・リヴォーヴィッチ・チェビシェフは、1821年5月16日にロシアのカルーガ州ボロフスク地区の村で生まれた数学者である。裕福な地主の父レフ・パーヴロヴィッチのもとに、9人兄弟の一人として生まれた。父は退役した軍人で、ナポレオンの侵攻軍と戦った人物であった。幼いころは、母から読み書きを、いとこからフランス語と算数を習った。音楽の教師も、彼の正確さや解析的な考え方を高めてくれた重要な存在だったと、のちに述べている。原因は不明だが、足を引きずる身体の障碍があり、歩くのに杖が必要だったため、両親は彼を一族の伝統である軍人にするという考えを捨てた。障碍のため多くの子供たちの遊びから遠ざかり、代わりに機械を作ることに情熱を傾けた。後年、フランス語は、ヨーロッパの科学者に研究を伝える手段となった。
1832年、家族は年長の息子たちに教育を施すためモスクワに転居し、評判の高い家庭教師をあてがった。そのなかには、小説家ツルゲーネフの家庭教師も務めた数学と物理学の教師ポゴレルスキーがいた。1837年夏にモスクワ大学の入学試験に合格し、秋に数学の勉強を始めた。実践的な力学を教えたブラシュマンから大きな影響を受け、1838年に完成させた「方程式の根の計算」の業績で、1841年に銀メダルを授与された。同年、ロシアに飢饉が起きて両親はモスクワを離れざるを得なくなり、これ以上は彼を支えられなくなったが、彼は数学の研究を続ける道を選び、6か月にわたって修士課程の入学試験に備えた。1843年10月に最終試験を通過し、1846年に修士論文「確率論の初等的解析に関するエッセイ」を提出した。
1847年に「対数を援用した積分について」という論文をサンクトペテルブルク大学に提出し、講師の資格を得た。このころ、ブニャコフスキーが、オイラーの業績の編纂を進めており、彼にこれらの研究を行うよう勧めた。1848年に博士論文「合同の理論」を提出し、1849年5月に学位を得た。1850年に同大学の特任教授に推され、1860年に正教授となった。25年にわたる教育業績により、1872年に功労教授となり、1882年に大学を辞して研究に捧げた。1852年から1858年には、ツァールスコエ・セローのリセで実践的力学の講義も担当した。
1856年に科学アカデミーの準会員に推挙され、同年に特別会員、1858年には正会員となった。1859年には科学アカデミーの兵器部門の常任委員に任命され、委員長として砲術や射撃理論の問題を扱った。フランス科学アカデミーは、1860年に通信会員に、1874年に外国人正会員に加えた。彼の業績は、確率論、統計学、数論で知られる。チェビシェフの不等式は大数の法則を証明するために用いられ、1848年から1852年に得た数論の結果は、素数の分布に関するガウスとルジャンドルの予想に迫るものだった。回転運動を、直線運動に近い動きに変える機構の考案もある。ロシアの数学の父とも言われ、リャプノフやマルコフらが教え子である。1894年にサンクトペテルブルクで死去した。月面のクレーターと小惑星に、彼の名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム・ロッシャー (1894年没)
- ジャーム・ダルメステテール (1894年没)
- ジュバル・アーリー (1894年没)
- マリー・フランソワ・サディ・カルノー (1894年没)
- エマニュエル・シャブリエ (1894年没)
同じ地域に関係する人物
- ドミートリー・レヴィツキー (1822年没)
- ワシーリィ・バルトリド (1930年没)
- イワン・パブロフ (1936年没)
- ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ (1767年没)
- ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ (1879年没)