HISTORICAL PERSON · 1894年没

ロバート・ルイス・スティーヴンソン

エディンバラ生まれの小説家・詩人。結核と闘いつつ、1883年に『宝島』、1886年に『ジキル博士とハイド氏』を出版した。1890年から南太平洋のサモアに移り住み、1894年に脳溢血で亡くなった。

生涯
1894年没
死亡地
サモア独立国(ツアマサガ / Vailima)
出生地
イギリス連邦(エディンバラ)
出典
世界地図
サモア独立国(ツアマサガ)

伝記

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、1850年11月13日にスコットランドのエディンバラで生まれ、1894年12月に没した小説家・詩人・エッセイストである。代表作に冒険小説『宝島』と『ジキル博士とハイド氏』がある。生涯、結核と闘いながら、幻想的で寓意に満ちた小説を書いた。幼いころは乳母から聖書やスコットランドの歴史物語を聞き、詩や小説に親しんだ。父トーマスと祖父ロバートは、ともに灯台建設を専門とする技術者で、母はマーガレット・バルフォアである。エディンバラ・アカデミーを経て、1867年にエディンバラ大学の工学科に入学し、父の跡を継ぐことを期待されたが、1871年に法科に転じた。1873年には療養のためフランスに滞在し、1875年に弁護士の資格を得た。出生時の名はロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソンだったが、18歳のときに間のバルフォアを外し、さらにセカンドネームの綴りも改めた。名を略す際には頭文字でRLSと名乗った。生まれつき病弱で、若いころに罹った結核のため、各地を転地療養しながら作品を執筆した。

処女作は1874年に雑誌に発表したエッセイである。療養先で、レズリー・スティーヴンの紹介でジャーナリストのヘンリーと知り合い、1877年からヘンリーの編集する『ロンドン・マガジン』に『新アラビア夜話』を連載した。同じ1877年にパリで、のちに妻となるアメリカ人ファニー・オズボーンと出会った。ファニーは10歳年上で既婚、2人の子がいたが、1879年に夫が病を患ったことから離婚し、翌年5月にサンフランシスコで彼と結婚した。この頃、フランスの運河をカヌーで旅した経験による『内陸の旅人』(1878年)と、『驢馬の旅』(1879年)の紀行文を出版した。ファニーと子どもたちを連れてスコットランドに帰り、1881年にはエッセイ『若い人々のために』を出版した。1882年に南フランスのイエールに家を買ったが、父の病気が悪化したため、ボーンマスに移り住んだ。

1883年に最初の長編小説『宝島』を出版して、一躍名を高めた。ウィリアム・グラッドストンは、ローズベリー卿の家で見せられて欲しくなり、翌日ロンドン中の本屋を探させたというほどの人気だった。1885年に『プリンス・オットー』、1886年に『誘拐されて』と代表作『ジキル博士とハイド氏』を出版した。1887年5月に父が亡くなると、8月には妻子を伴ってアメリカに移り、新たな転地先を探した。サンフランシスコで出版界のチャールズ・ウォーレン・ストッダードと出会い、南海の話に興味をもった。南太平洋の島々の気候が健康に良いと考え、1888年にマルキーズ諸島やパウモトゥ諸島、ギルバート諸島を訪れ、1889年にはハワイでカラカウア王と親しくなった。1890年10月、家族とともにサモア諸島のウポル島に移住し、残りの生涯をそこで過ごした。島人から「ツシタラ(語り部)」と呼ばれて好かれ、島の争いを調停する仕事もした。島での暮らしは健康に恵まれ、多くの作品を発表した。

1894年12月、妻との会話中、ワインの栓を抜こうとしたときに脳溢血の発作を起こし、2時間後に亡くなった。遺稿は、倒れる直前まで口述していた小説『ハーミストンのウエア』で、未完となった。亡骸はバエア山の頂に葬られ、墓碑には彼の詩が刻まれた。ウポル島の旧邸は、現在、博物館として使われている。『宝島』『ジキル博士とハイド氏』『新アラビア夜話』などは、児童向けの抄訳を含め、日本や世界各国で広く読み継がれている。

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