伝記
アレクサンドル3世は、1845年3月10日(ユリウス暦2月26日)にサンクトペテルブルクの冬宮殿で生まれたロマノフ朝第13代のロシア皇帝(在位1881年から1894年)である。アレクサンドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第2皇子で、兄ニコライが早世したために皇太子となった。身長190センチの長身として知られ、顔の左側にあった皮脂嚢胞を嘲笑されたことがコンプレックスとなり、成長後の肖像画や写真は右側から描かれたものが多い。音楽家やバレリーナのパトロンとなったが、周囲からは洗練さや優雅さに欠けると見られていた。兄がいたため帝王教育は受けず、幼少時から軍人として教育され、20年間は帝位に就くことが想定されていなかった。
1865年4月24日、兄ニコライが旅行中に病で急死し、皇太子となった。もとは兄の教師だった聖務会院院長ポベドノスツェフから法律学と行政学を学び、ロシア正教会の思想に基づく保守的で反改革的な帝王学を教え込まれた。その保守的な考えは政府の方針と離れていたため、重要な公務は任されなかった。兄の婚約者でデンマーク国王クリスチャン9世の第2王女マリー・ダウマーとは、1866年10月28日に結婚した。彼女はロシア正教に改宗してマリア・フョードロヴナと名乗った。政略結婚だったが夫婦仲はよく、アレクサンドルは家族生活を大切にし、父と異なり他の女性に手を出さなかった。父帝とは政治的な対立などから疎遠になり、病弱な母を放置して愛人としていたドルゴルーコヴァと、父が1880年に母の没後まもなく再婚したことも、その理由に挙げられる。
1881年3月、父アレクサンドル2世が「人民の意志」の爆弾テロで崩御し、3月13日に即位した。自分が統治者として充分な教養を欠くことを自覚し、自らを「誠実なる連隊長」と称していた。冬宮殿では安全を確保できないと助言され、ガッチナ宮殿に生活の拠点を移した。富豪だったが倹約家で、王室費を200万ポンド削減した。父が暗殺当日に設けた諮問委員会はポベドノスツェフの助言で即座に解散し、治世は父の改革を否定することが基本だった。単一の国家、言語、宗教による国家形成を目ざし、フィンランド大公国を除く全域でロシア語を強制し、ドイツ語、ポーランド語、スウェーデン語での教育を禁じた。1882年にはユダヤ人の就業を制限する五月勅令を定め、これは1917年の2月革命まで続き、多くのユダヤ人が国外に移った。ゼムストヴォの力も弱めた。
1887年5月、アレクサンドルの暗殺計画が露見し、アレクサンドル・ウリヤノフら5人が処刑された。ウリヤノフはレーニンの兄だった。1888年10月28日には御召列車が脱線して21人が亡くなったが、皇帝は崩れ落ちる屋根から子供たちを覆って守った。この時の負傷が、のちの腎不全の原因になったという。外交では、ドイツ重視の父の方針を改め、1887年に独露再保障条約を結んだが、ビスマルクの罷免後に更新されず、1894年に露仏同盟が結ばれた。中央アジアへの進出ではイギリスとグレート・ゲームを繰り広げ、フランス資本でシベリア鉄道を起工した。1894年に腎炎を発症し、クリミアのリヴァディア宮殿で療養したが、11月1日に妻の腕の中で崩御し、ペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬された。4男2女に恵まれ、長男がニコライ2世である。
同じ年に亡くなった人物
- アマーリエ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ (1894年没)
- アメリア・ジェンクス・ブルーマー (1894年没)
- アドルフ・サックス (1894年没)
- ヴワディスワフ・チャルトリスキ (1894年没)
- ゼブロン・バンス (1894年没)
同じ地域に関係する人物
- パーヴェル・ポポーヴィチ (2009年没)
- ドミトリー・ミリューチン (1912年没)
- ヴィクトル・モチュルスキー (1871年没)
- ボリス・トマシェフスキー (1957年没)
- マリウス・プティパ (1910年没)