伝記
黎桓(レ・ホアン)は、前黎朝大瞿越の創始者である。後世には黎大行(レ・ダイ・ハイン)とも称される。英語圏の記述では941年8月10日の生まれで、1005年に没したとされ、ベトナム政府は彼を14人の国民的英雄の一人に公式に指定している。
愛州の出身で、先祖は桂州陽朔県から来たと伝えられる。幼くして両親を失い、同じ愛州の黎観察(黎突)に養育されて成長した。誕生をめぐっては、母が胎内に蓮の花が咲くのを見たとか、冬の夜に眠る彼を金色の龍が覆って温めていたのを養父が見て将来の大成を確信したなどの神話的な逸話が語られる。やがて丁部領に仕えて十二使君の乱の平定に貢献し、968年に丁朝が成立すると、十道将軍・殿前都指揮使に任じられて軍を率いた。
979年の末、丁部領とその長男の丁璉が、祗候内人の杜釈に殺害された。後継となった次男の丁璿は幼少で、わずか6歳であった。黎桓は丁部領の皇后であった楊雲娥と私通し、副王を称して実権を握った。皇后が黎桓の即位を望んだともいい、丁璿は帝位を譲ったとされる。これに反発した定国公や外甲の一派は挙兵したが、兵力に勝る黎桓に鎮圧された。この混乱に乗じて北宋が侯仁宝らの軍を水陸両路から侵攻させた。国難を乗り切るため朝臣に推された黎桓は、980年に皇帝に即位して前黎朝を建てた。981年の初め、白藤江で宋の水軍が大瞿越軍を破り、約1000人の水兵を殺して200隻の船を奪ったとされる。しかし黎桓は降伏を装って侯仁宝をおびき寄せて殺し、奇襲で宋軍を破った。のちに黎桓が北宋に冊封を求めると、契丹の脅威にさらされていた北宋もこれを受け入れ、993年に交趾郡王、997年に南平王に封じて前黎朝を承認した。
宋軍の将軍たちは敗戦の責めを問われて処刑されたといわれ、その後に宋は大瞿越へ使節を送り、両国の関係は安定に向かった。朝廷では、仏教の高僧・匡越を大師として遇し、中国人の洪鑑を経史に通じた者として登用した。なお979年の末にはチャンパ王が、ベトナムから逃れていた呉日慶の復位を名目に攻め込もうとしたが、台風で艦隊の大半を失って計画は挫折していた。南方では、982年にチャンパへ親征した。派遣した使節がチャンパ王に拘束されたためともされ、王都インドラプラを攻め落として王を討ち、臣称して貢納するよう迫った。チャンパの王子は南へ逃れ、翌年にはチャンパ軍にいたベトナム人将校の劉継宗が権力を握り、黎桓による排除の試みを退けたという。国内では軍政が実質であり、法は峻厳で刑罰は重かった。運河を開いて経済を発展させ、農業の振興や学校の設置、人材の登用にも力を注いだと評価される。11人の子を王に封じて各地の守備と統治に当たらせ、1002年には全国十道を路・州・府に改めて地方制度の確立を図った。それでも諸王間の内紛は続き、地方豪族の反抗、農民反乱、少数民族の蜂起が相次いだ。史書は、黎桓がこれらに過酷な鎮圧を加えたと記す。999年には芒人の乱を平定し、河蛮洞など四十九洞を陥落させた。
1005年、長春殿で64歳で崩御した。死後は皇太子であった三男の黎龍鉞が即位した。11人の子と1人の養子がおり、早世した擎天大王のほか、後に第3代皇帝となる黎龍鋌らがおり、娘の貞明皇后は李公蘊(李朝の初代皇帝)に嫁いだ。黎文休や呉士連といった史家は、黎桓を国の繁栄に貢献した偉大な皇帝と称えた。
同じ年に亡くなった人物
- 安倍晴明 (1005年没)
- Ibn Manda (1005年没)
- ケネス3世 (1005年没)
- シグムンド・ブレスティソン (1005年没)
- Lutgardis of Luxemburg (1005年没)
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