HISTORICAL PERSON · 1893年没

パトリス・ド・マクマオン

19世紀フランスの軍人・政治家で、第三共和政の第3代大統領。大陸ヨーロッパで国家元首になった唯一のアイルランド系の人物とされ、アルジェリア征服戦争にも従軍した。

生涯
1893年没
死亡地
フランス共和国(ロワレ県 / モンクレソン)
出生地
フランス共和国(Sully)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワレ県)

伝記

パトリス・ド・マクマオンは、1808年にブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県シュリーの城で生まれ、1893年10月に没したフランスの軍人、政治家である。マジェンタ公爵の称号を持ち、第三共和政の第3代大統領(在任1873年から1879年)を務めた。祖先はアイルランドの出身で、ジェームズ2世の時代にフランスへ移り、1749年に帰化した家であり、大陸ヨーロッパで国家元首になった唯一のアイルランド系の人物とされる。祖父ジャン=バティストはルイ15世から爵位を与えられ、一族は軍人を多く出す徹底した王党派であった。パトリスは17人兄弟の16番目で、次男の末子にあたる。

ソーヌ=エ=ロワール県のオータンの神学校、ついでパリのリセで学び、1825年にサン=シール陸軍士官学校に入り、1827年に卒業した。1830年のアルジェリア征服戦争に参加し、アルジェ攻略での勇敢さをたたえられ、レジオン・ドヌール勲章を受けた。1834年から1854年までアルジェリアに勤務し、1837年のコンスタンティーヌ攻撃では負傷した。1843年にはフランス外人部隊の司令官となり、1852年に少将に昇進した。クリミア戦争では1855年9月8日の総攻撃で、セバストーポリのマラコフの戦いで傑出した功績を立て、陸軍最高のポストに内定したが、それを辞退してアルジェリアに戻った。1856年には上院議員に任命された。イタリア統一戦争では第2軍団司令官としてオーストリアと戦い、1859年6月4日のマジェンタの戦いでフランスの勝利を決めた。この功でナポレオン3世からマジェンタ公爵の称号と元帥の地位を受けた。1864年にアルジェリア総督となった。

1870年に普仏戦争が起こるとアルザス軍を率いて戦ったが、9月のセダンの戦いでフランス軍は大敗し、自身も負傷した。軍の全体が降伏してナポレオン3世も捕虜となり、第三共和政が宣言された。戦後、ヴェルサイユに拠点を置く新政府の総司令官として、1871年5月のパリ・コミューンを鎮圧し、これが政治家としての道を開いた。1873年、ティエールの辞職後、王党派が多数を占める国民議会に擁立されて大統領に選ばれた。王党派はブルボン家の王位請求者が復位の準備を整えるまでの時間を稼ぐことを期待したが、シャンボール伯の極端な正統王朝主義のために王政復古は難しく、マクマオンも議会を無視した王政復古の企てに加わることを拒んだ。同年11月には7年の任期が議決された。1874年には、ボナパルト派の要求もあって憲法改正を求め、大統領と、間接選挙による上院からなる制度につながった。憲法の中立的な守護者としての務めを守って、王政復古のクーデターを拒む一方、共和派の指導者ガンベッタとは会おうとしなかった。

1876年の選挙で共和派が下院の優勢を握ると、穏健共和派のジュール・シモンを首相にせざるをえなかった。厳格な保守的カトリックで、共和派を深く警戒していたマクマオンは、1877年5月17日にシモンを解任した。しかし同年10月の選挙で共和派が勝ち、対立はいっそう深まり、7年の任期を待たず1879年1月30日に辞職した。引退後は私人として暮らした。1893年に死去し、国葬でアンヴァリッドの地下聖堂に葬られた。

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