HISTORICAL PERSON · 997年没

プラハのアダルベルト

プラハ司教。ボヘミアで宣教しハンガリーの族長らに洗礼を施し、ポーランド公に歓待された後プルーセン人への布教中に殉教、後にカトリック教会の聖人とされた。

生涯
997年没
死亡地
ロシア連邦(カリーニングラード州 / ヴィスワ潟)
出生地
チェコ共和国(リビツェ・ナド・チドリノウ)
出典
世界地図
ロシア連邦(カリーニングラード州)

伝記

プラハのアダルベルトは、プラハ司教を務め、バルト海沿岸の古プルーセン人への布教中に殉教した聖人である。チェコ語ではヴォイティエフ、ポーランド語ではヴォイチェフと呼ばれ、生年は956年とも952年頃ともされ、997年4月23日に没した。ボヘミア中部のリビツェを拠点とするスラヴニク家の出身で、父は同地を治めるスラヴニク公、母はストシェジスラヴァである。幼い頃に重い病を生き延びたことから、両親は彼を神への奉仕に捧げることにしたという。

アダルベルトはおよそ10年間、マクデブルクで大司教アダルベルトのもとで学んだ。堅信のときに師の名をもらい、アダルベルトと名乗った。師の死後の980年ないし981年にボヘミアへ帰り、982年にプラハ司教の地位を継いだ。30歳のときとも、教会法の定める年齢に達していなかったともいわれる。裕福な貴族の子であったが、贅沢を避けて清貧を守り、慈善と禁欲で知られた。しかしボヘミアには異教の信仰が深く根づいており、数年の説教と祈りにもかかわらず布教はほとんど進まなかった。奴隷貿易への関与や一夫多妻、偶像崇拝を批判して改革を唱えると、世俗の権力者や聖職者の反発を受けた。やがて988年または989年に司教職を離れてローマへ向かい、ベネディクト会の修道院で隠者として暮らした。

993年、教皇ヨハネス15世、あるいはマインツ大司教ヴィリギスの求めによりボヘミアに戻り、再び司教となった。イタリアの修道士たちとともにプラハ近郊にブジェヴノフ修道院を建て、993年1月14日に創建したとされる。しかし布教はまたも思うように進まず、チェコ人の諸侯との政治的な争いに巻き込まれた。995年にローマへ戻ったのち、ボヘミア公ボレスラフ2世がアダルベルトの兄弟五人を殺害し、一族の本拠リビツェを破壊した。これによりアダルベルトはボヘミアに安全に留まれなくなった。教皇は司教座へ戻るよう命じたが、彼は戻ることを許されないと考え、巡回宣教師として活動することを望んだ。996年6月からフランスとドイツを巡礼し、皇帝オットー3世の宮廷にも滞在し、この間にプラハ司教の職務を解かれた。その後ハンガリーでマジャル人の族長ゲーザとその子イシュトヴァーン(のちのイシュトヴァーン1世)に洗礼を授けたとされ、997年3月にはポーランド公ボレスワフ(のちのボレスワフ1世)のグニェズノの宮廷を訪れた。

アダルベルトは977年のころからすでにプルーセンへの宣教を思い描いていたらしく、ボレスワフが兵士を同行させ、異母弟ラディムらとともにバルト海沿いにプルーセンへ入った。彼らは聖なるオークの木を切った。異教徒は木に宿る精霊を恐れており、その力もキリスト教徒を害し得ないと示す行為であった。立ち去れというプルーセン人の警告を聞かなかったため、アダルベルトは捕らえられて殺害された。殉教の地はトルソ(現在のエルブロンク)近郊、またはプリモルスク近郊とされる。

殉教の数年後、999年に教皇シルウェステル2世によって列聖されたとされる。遺骸はボレスラフ2世が買い取りを拒んだため、ボレスワフ1世が遺骸と同じ重さの金を払ってプルーセン人から取り戻し、グニェズノ大聖堂に収められた。1039年にはボヘミア公ブジェチスラフ1世が聖遺物をプラハへ移したとされるが、ポーランド人が一部だけを渡したともいわれる。こうして墓はグニェズノとプラハの二か所にある。ボヘミア、ポーランド、ハンガリー、プロイセンの守護聖人とされ、古い聖歌の作者とも伝えられるが、確認はされていない。

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