伝記
ミェシュコ1世は、ピャスト朝ポーランド王国の創始者で、初代のポーランド公である。生年は935年ごろとされるが確かではなく、生年を伝える年代記は『小ポーランド年代記』のみで、920年から931年の間とするものの、現代の研究者はこれを信頼できる史料とみていない。研究者の推定は922年から945年の幅があり、晩年の活動ぶりから、後者に近いとみられている。992年5月25日に没した。ポーランド王国の基幹部族となったレフ族(ポラニェ族)の族長シェモミスウの子で、レストコの孫、シェモヴィトの曾孫、ピャストの玄孫にあたる。ミェシュコの名は、伝統的にはミェチスワフの愛称と考えられてきたが、現代の歴史家の多数はこれを退けている。ガル・アノニムの年代記に最初に記された伝説では、彼は生後7年間は目が見えなかったとされるが、これは実際の障害ではなく、異教徒であったことを示す中世の寓意とされる。
父の死後に権力を継いだ時期は、963年とも960年前後ともいわれる。継承した土地は史料の不足から正確には分からないが、ポラニェ族とゴプラニェ族の地、シェラツ=ウェンチツァの地、クヤヴィアが含まれていたことは確実とされる。即位後は、部族ごとの結びつきが強い、民族や文化の異なる広い領土をまとめる課題に直面した。即位直後には、ヴィエルトやヴォリニアなどのスラヴ系支族と、その同盟者であるザクセン貴族ヴィヒマン2世の侵攻に悩まされ、バルト海沿岸のポンメルン地方を侵略されたという。それでも政治の才に優れ、同盟と武力の両方を使い、征服を広げた。父の代から、あるいは即位後の初期にマゾフシェを征服したとされ、治世の大半はポンメルン西部をめぐる戦いに費やされ、最終的にオーデル川下流の付近まで併合した。
外交では、かつての敵とも協定を結んだ。965年、ボヘミア(チェコ)公ボレスラフ1世の娘ドウブラフカを妃に迎え、同盟を結んだ。彼女はポーランドにキリスト教をもたらしたとされる。966年、ミェシュコはカトリックに改宗し、これによりポーランドは西方キリスト教の文化圏に入った。ザクセン系ではなくバイエルン系の聖職者から洗礼を受け、神聖ローマ帝国の影響下に入ることを巧みに避けたとされ、設置されたポズナンの司教座は教皇に直属した。このため彼は「ポーランドのクローヴィス」とも呼ばれる。同じころ、プラハの宮廷を訪れたセファルディムのユダヤ人旅行者アブラハム・ベン・ヤコブが、ミェシュコを、広い「北方」を治め、強力な軍勢を持つ四人のスラヴ人の「王」の一人として記録している。3000名を擁するといわれる従士団が、統一の大きな推進力となったともいう。
ドウブラフカは977年に亡くなり、978年ごろ、彼はノルトマルク辺境伯ディートリヒの娘オーダと結婚した。長女シフィエントスワヴァはスウェーデン王エリク6世、続いてデンマークのスヴェン1世に嫁ぎ、のちのカヌート大王の母になったとされる。晩年にはボヘミアと戦い、シロンスクと、今のマウォポルスカにあたる地を得た。992年に世を去ると、ドウブラフカとの子ボレスワフ1世が跡を継いだ。約1085年の教皇庁の文書『ダゴメ・イウデクス』にある「ダゴメ」は、彼が洗礼名ダゴベルトを名乗ったことに由来する可能性がある。現在ポーランドの10ズウォティ紙幣の表面には、その肖像が使われている。
同じ年に亡くなった人物
- ジャウハル (992年没)
- オズワルド・オブ・ウスター (992年)
- モンチエ=アン=デルのアドソ (992年)
- Michael I of Kyiv (992年没)
- コナン1世 (ブルターニュ公) (992年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。