伝記
ジョン・アレグザンダー・マクドナルドは、1815年1月11日、スコットランドのグラスゴーで生まれ、カナダの初代首相および第3代首相を務めた政治家である。出生は登記所には1月10日と記録されていたが、のちに家族が11日に訂正した。父ヒューは商人だったが成功せず、五人きょうだいの三番目だったジョンは、借金を抱えた一家とともに、1820年にアッパー・カナダのキングストンへ移民した。一家は店に住んだが、店が破綻してヘイ・ベイに移った。母は彼に長く影響を与え、1862年に亡くなるまで支えた。
十歳でキングストンの学校に入ったが、正規の教育は十五歳で終わった。両親は、学問に惹かれ商売には関心の薄い彼を、弁護士にすることに決めた。のちに「私に子供時代はなかった。十五歳から自分で生計を立てた」と語った。ヨークの法曹協会の試験に合格して、ジョージ・マッケンジーのもとで見習いとなり、1834年に弁護士として開業した。やがて連合カナダの議員に選ばれ、1847年にはドレイパー政権で歳入役となった。1854年の自由保守党の設立と新政権の誕生に寄与し、司法長官として、しばしば首相以上の指導力を発揮した。1856年から翌年には、ケベックのタッシェとともに「連合カナダ共同首相」に選ばれ、その後はカルティエとの共同政権で、植民地間の通信制度や長距離鉄道の敷設に尽力した。この政権は1862年に選挙で敗れ、マクドナルドは野党の指導者となった。
政治が不安定なこの時期、彼は地域の将来に目を向けた。1864年に保守党はジョージ・ブラウン率いる改革党と「大連合」を組み、マクドナルドは北米の英領植民地をカナダに連合させる働きかけを続けた。1864年9月のシャーロットタウン会議、10月のケベック会議を経て、計画は採択された。ニューブランズウィックとノバスコシアは合意し、ニューファンドランドとプリンスエドワードアイランドは反対したが、のちに加わった。イギリス議会が英領北アメリカ法を制定し、連邦制の「カナダ自治領」が形成されることになった。この法律は「1867年カナダ憲法」として今も効力を持つ。ヴィクトリア女王は自治領が成立した1867年7月1日に、彼に聖マイケル・聖ジョージ勲章を授け、同年8月の選挙で保守党が政権を取って、彼は初代首相となった。
初代首相としては、連合による国土の拡大と安定を主眼とし、ルパート・ランドと北西地域をハドソン湾会社から30万ポンドで譲り受けた。1870年にマニトバ法を制定してマニトバ州をつくり、大陸横断鉄道の敷設を約束して、1871年にブリティッシュ・コロンビアを連邦に加え、1873年にはプリンスエドワードアイランドも加盟した。この年、のちの王立カナダ騎馬警察となる北西騎馬警察も設立した。しかし同年、鉄道敷設をめぐる収賄の疑いの「パシフィック・スキャンダル」で首相を辞任し、自由党のマッケンジーが後を継いだ。1878年に首相に返り咲くと、国内産業の振興に努め、1885年に完成した大陸横断鉄道の建設に尽力した。
1891年に再選されたが、健康が悪化し、過度のストレスと疲労のため同年5月に脳卒中を起こして言語能力を失い、6月6日に七十六歳で亡くなった。遺体はオタワの国会議事堂に安置され、国葬が行われた。1843年にイザベラ・クラークと結婚して二人の息子を得たが、イザベラは1857年に亡くなり、1867年にアグネス・バーナードと再婚した。首相の在任は通算十九年に及び、多様な市民からなる国を築いた功績で称えられ、カナダの10ドル紙幣に肖像が刷られている。
同じ年に亡くなった人物
- ポマレ5世 (1891年没)
- ジュール=エリー・ドローネー (1891年没)
- トーマス・ブラキストン (1891年没)
- アンリ・リトルフ (1891年没)
- グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵) (1891年没)
同じ地域に関係する人物
- Frank Dixon (1932年没)
- ルービン・カーター (2014年没)
- ジョルジュ・リヨン (1938年没)
- スティーヴン・リーコック (1944年没)
- マーク・ルデック (2009年没)