伝記
アルベール1世は、10世紀のヴェルマンドワ伯である。915年ごろに生まれ、987年9月8日ごろに没した。敬虔伯と称され、アダルベルトとも表記される。父はヴェルマンドワ伯エルベール2世、母はフランス王ロベール1世の娘アデルである。伯位には943年から987年まで在位したとされるが、父の跡を継いだのは946年ともいわれる。
アルベールの生きた時代、ヴェルマンドワ家と西フランク王家とのあいだには深い因縁があった。父エルベール2世は、ルイ4世の父であるシャルル3世(単純王)を捕らえて投獄し、獄中で死なせる原因をつくった人物とされ、ルイ4世が幼いころにイングランドへ亡命することになった原因でもあった。この確執は、アルベールの代にも影を落とすことになる。アルベールは、弟のエルベール3世と、ルイ4世の母である王妃オットベガ(ウェセックスのエドギフ)との結婚を支援した。アルベールの家臣たちは、ランの修道院にいたオットベガを、エルベール3世との結婚式の場まで護送した。ただし、一部の記録では誘拐であったとされる。これを知ったルイ4世は激怒し、母の財産と、妃ゲルベルガ・フォン・ザクセンに与えていたランの聖マリア修道院、そしてアティニーの王室財産を没収した。957年には、アルベールと、もう一人の弟でモー伯・トロワ伯のロベールが、ルイ4世の子であるフランス王ロテールの支持者として名が挙がっている。
のちに下ロレーヌ公シャルルが王位継承権を主張しようと決意したとき、アルベールはこれを支援した。同じく支援したのは、アルベールの二人の甥、モー伯エルベールとブロワ伯ウード1世であった。アルベールと甥たちはシャルルの陰謀を手助けし、シャルルが捕らえられて投獄されたあとも、新しい王を煩わせ続けた。
987年にユーグ・カペーがフランス王に選出されたとき、アルベールはなかなかこれを認めようとしなかった。ユーグが自分を攻撃するつもりだと知ると、アルベールはサン=カンタンの司祭デュドをノルマンディーに派遣した。ノルマンディー公リシャール1世が、双方の平和を保つために影響力を行使してくれるかを確かめるためである。公はそれを実行したようだとされる。一方、ユーグ・カペーのほうでも、アルベールが自分に反抗しようとしているのではないかと疑っていた。
アルベールは954年にロートリンゲン公ギゼルベルトとゲルベルガ・フォン・ザクセンの娘ゲルベルガ(ジェルベルジュ)と結婚し、エルベール3世(953年ごろから1016年ごろ)、シニー伯となったオトン(950年から955年のあいだに生まれ、987年没)、ウード(956年ごろに生まれ、983年から987年のあいだに没)、ノワイヨン司教とトゥルネー司教を務めたリウドルフ(957年ごろに生まれ、986年没)をもうけた。妻ゲルベルガは978年に先立ったとされる。987年9月8日ごろに世を去ると、息子のエルベール3世が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・オルセオロ1世 (987年)
- アブー・スライマーン・スィジスターニー (987年)
- アルヌール2世 (フランドル伯) (987年没)
- シメオン・メタフラスト (987年)
- アブル=ファワーリス・アフマド・ブン・アリー (987年)
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