伝記
トルニケ・エリスタヴィは、十世紀のジョージア(グルジア)出身の将軍で、のちに修道士となり、ギリシャのアトス山にジョージア人のための修道院イヴィロンを築いた人物である。ヨハネ・トルニケの名でも知られ、985年に没した。生年は伝わっていない。
出身はジョージアの名門貴族の家で、統治者であったバグラティオニ家の身近にいた。父チョルドヴァネリは、950年ごろにコンスタンティノープルを訪れてビザンツ皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスに会ったジョージアの公子アショト2世クロパラテスの随行者のひとりだったという。甥のうち三人が軍人の道に進み、そのひとりヴァラズヴァチェは1037年から1038年にかけて、ビザンツ東方の要地エデッサのカテパノ(軍事総督)を務めた。
トルニケ自身は、バグラティオニ家のもとでエリスタヴィ(ビザンツのストラテゴスに相当するジョージアの官職)として軍人・宮廷人の経歴を重ね、ビザンツのパトリキオスの称号も得た。963年ごろ、タオのダヴィト3世に仕える将軍の職を辞し、ヨアネ(ヨハネ)と名のってアトス山のアタナシオスの大修道院に隠棲した。970年代初めには、同じく引退したジョージア人の軍人ヨアネと、その子エクヴティメが加わった。
976年、バルダス・スクレロスの反乱がビザンツ帝国のアジア側の諸州で起こった。皇帝バシレイオス2世の治世初期で最大の動乱であり、スクレロスは忠実な将軍バルダス・フォカスに連勝し、アナトリアを横断して首都へ迫った。バシレイオスは修道士となっていたトルニケを首都に召し、ダヴィト3世との同盟を取りつけるよう求めた。トルニケは気が進まなかったが、皇帝の命に従うことがアトスの修道士たちのためになると仲間の修道士に説かれて引き受けた。ダヴィトはこれに応じ、かつての将軍に約1万2000のジョージア騎兵を預けて帝国軍の援軍とした。決戦は979年3月24日、カイサリア近郊のパンカリアで行われ、反乱軍は大敗した。
恩賞として、ダヴィトはアナトリア北東部の広大な土地の終身の管理権を与えられ、トルニケは総主教の補佐役であるシンケロスの称号を受けた。さらに重要なのは、戦利品の「貴重な品々」と金12ケンテナリア(1200リトラ)を携えてアトスに戻ったことで、これによってジョージア人は自分たちの修道院イヴィロンを建てることができた。皇帝はトルニケに土地と特権を与え、補助金を出し、租税も免除した。新しい修道院は、創設者(クティトル)のトルニケと、友人のイベリアのヨハネが院長として共同で運営した。のちにギリシャ人が多く住むようになったが、今もギリシャ語で「イベリア人の」を意味するイヴィロンの名で呼ばれる。トルニケは聖人として崇敬されている。
同じ年に亡くなった人物
- バシレイオス・ノソス (985年没)
- ラミロ3世 (レオン王) (985年没)
- ハサン2世 (985年没)
- ボニファティウス7世 (対立教皇) (985年没)
同じ地域に関係する人物
- Dionysios III de Constantinople (1696年没)
- ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン) (1200年没)
- イベリアのヨアネ (1002年没)
- Patriarch Jeremias III of Constantinople (1735年没)
- ダヴィド・コムネノス (1212年没)