伝記
ベネディクトゥス7世は、974年10月から983年7月10日に亡くなるまで在位したローマ教皇である。生年は分からず、930年ごろのローマの生まれともいわれる。ダヴィドまたはデオダトゥスという人物の子で、ローマの有力なトゥスクルム伯の家系に属し、ローマの支配者だったアルベリーコ2世(在位932年から954年)の甥とも、その血縁につながる人ともされる。ローマの有力貴族クレッシェンティウス家とも縁があったと伝えられる。教皇に就く前は、ストリの司教を務めていた。
当時のローマは、教皇の地位をめぐる争いで揺れていた。前任のベネディクトゥス6世は殺害され、その後、教皇位を奪ったのが対立教皇ボニファティウス7世である。この人物はわずか1か月ほどでヴァチカンの貴重な財宝を持ち去り、コンスタンティノポリスへ逃れた。そこで東ローマ皇帝の支持を得て、ベネディクトゥスを支持した二人の総主教が退けられたともいう。974年10月、神聖ローマ皇帝オットー2世の使者シッコの影響下にあったローマの聖職者と市民が、ベネディクトゥスを教皇に選んだ。この選出は、帝国と地元貴族の妥協によるものだった。
しかし、追放されたボニファティウスの一派は強く抵抗し、新教皇は皇帝オットー2世に助けを求めざるをえなかった。皇帝の支えで地位を固めると、ボニファティウスは破門された。ボニファティウスが4年後にローマへ戻って教皇位を奪い、ベネディクトゥスをサンタンジェロ城に幽閉したので、再び皇帝の助けを借りて復位したとも伝えられるが、確かなことは分からない。ボニファティウス7世は、その後も984年から985年にかけて再び教皇位を主張することになる。ともあれ、ベネディクトゥスのその後の在位は、当時としては珍しく、およそ9年間ローマを平穏に治めたとされる。
在位中は、皇帝オットー2世とともに修道院改革や教会改革を進め、アヴェンティーノの丘に修道院を創設したともいわれる。聖職売買、いわゆるシモニアが教会に広がっていたことを憂え、981年3月にサン・ピエトロ教会で教会会議を主宰して禁止を決めた。この習慣は当時ごく一般的になっており、既婚の司祭が、自分が買った聖職の地位を息子に相続させることにもつながっていたという。同じ年の後半にはラテラノ教会でも教会会議を開いている。978年には、司教フローヤのために、ヴィク司教区の境界を定める教書を出し、前教皇ヨハネス13世が出した大司教区への昇格の文書を取り消した。また、カルタゴの人々から送られた司祭ヤコブを聖別した。イスラム勢力によるマグリブ征服後、アフリカでは司教の数が大きく減っていたという。さらに、甥のフィリッポ・アルベリキを連れて、イタリア中部のオルヴィエートを訪れた。フィリッポはのちにこの町に定住し、1016年にはその執政官となった。
983年7月10日にローマで亡くなり、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会に葬られたとされる。後継の教皇は、同じくオットー2世が推したパヴィア司教のヨハネス14世である。ベネディクトゥス自身は、981年に教書も起草したと伝えられる。在位はほぼ9年に及び、この時代の教皇としては比較的長いものであった。
同じ年に亡くなった人物
- 源順 (983年没)
- Abu al-Layth al-Samarqandi (983年)
- アズド・ウッダウラ (983年)
- オットー2世 (神聖ローマ皇帝) (983年没)
同じ地域に関係する人物
- ルチアーノ・サルチェ (1989年没)
- ユウェナリス (128年没)
- ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー (1651年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・グラッシ (1925年没)
- プブリウス・クロディウス・プルケル (紀元前52年没)