伝記
ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマンは、1822年1月6日にメクレンブルク=シュヴェリーン大公国で生まれたドイツの考古学者、実業家である。9人兄弟の6番目の子で、父エルンストはプロテスタントの説教師であった。母は彼が9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入ったが、貧しかったため1836年に退学し、食品会社の徒弟になった。自伝には仕事の合間の勉強で15か国語を完全に習得したとあるが、その可能性は低いとされる。貧困から脱するため1841年にベネズエラへの移住を志したが、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入った。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得した。1852年に30歳でロシア女性と結婚したが、後に離婚している。カリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功し、クリミア戦争ではロシアに武器を密輸して巨万の富を得たとされる。
1865年には世界旅行に出て、清に続いて日本を訪れ、旅行記を著した。日本到着は6月1日、出発は7月4日で、横浜から八王子へ馬で出かけ、手織機のある木造住宅や絹織物店の並ぶ町並みを見たと記している。その後ソルボンヌ大学やロストック大学で学び、ギリシアに移住して、17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚した。自身の著作では、幼少のころ『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけとするが、功名心の強い彼による後付けの創作の可能性が高いとされる。発掘費用を用意できたので事業を畳んだのではなく、事業を畳んでから遺跡の発掘を思いついたのだという。
1870年に無許可で丘の発掘に着手し、翌年に正式な許可を得て調査を始め、1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見して、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。今日では、その財宝はトロイア戦争の時代より千年以上前のものとされている。財宝はオスマン帝国政府に無断でアテネへ持ち出され、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツ帝国に寄贈された。のちにモスクワに移され、今はプーシキン美術館で展示されているが、トルコ、ドイツ、ロシアが所有権を主張し、決着していない。彼は発掘の専門家ではなく、政府との協定を無視して出土品を国外へ持ち出し、私蔵した。発掘中止を命じられると、外交官を動かして再度許可を出させた。発掘手法は「ずさん」と批判され、遺跡の損傷は再調査を難しくしている。
彼が戦争時代のものと推測した第2市は、実際には約1000年前の遺跡であり、戦争の時代は第7層Aと判明した。それでも、古代ギリシア以前の文明がエーゲ海各地に存在したことを証明した。1876年にはミケーネで「アガメムノンのマスク」のような金製遺物を収めた竪穴墓を発見し、建築家デルプフェルトの助力を得て、1884年にはティリンスの発掘にも着手した。1880年ごろからクレタ島のミノス王の宮殿跡に着手し、1886年にクノッソスで土地の買取交渉を始めたが、収益も重視する彼はオリーブの本数が少ないとして断念し、発見は4年後にエヴァンズが行った。10か国語以上を使い、地中海考古学の父と呼ばれる。1890年12月26日、旅行先のナポリの路上で急死し、アテネの第一墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- クリスチャン・H・F・ピーターズ (1890年没)
- ウィリアム・ワース・ベルナップ (1890年没)
- ジョン・C・フレモント (1890年没)
- ヴァシレ・アレクサンドリ (1890年没)
- ジョゼフ=ニコラ・ロベール=フルーリー (1890年没)
同じ地域に関係する人物
- アンナ・ゾフィー・フォン・プロイセン (1591年没)
- Christian Ehrenfried Weigel (1831年没)
- エリーザベト・フォン・アンハルト=デッサウ (1933年没)
- オーガスタ・オブ・ケンブリッジ (1916年没)
- マリー・フォン・ヘッセン=カッセル (1796-1880) (1880年没)