伝記
シッティング・ブルは、本名をタタンカ・イヨタケといい、1831年ごろに生まれ、1890年12月15日に没した、ラコタ・スー族のオグララ族に属するハンクパパ族の戦士で呪術師である。しばしば誤解されるが、酋長や族長、指導者ではなかった。スー族の年代記によれば、ダコタ準州のグランド川のそばで、ハンクパパ族の大戦士リターンズ・アゲインのひとり息子として生まれた。父は、力強い泣き声と、雲間から現れた満月を見て、将来偉大な人物となると予感し、「跳ねるアナグマ」と名付けたという。のちに父はバッファローの囁きから「座れる雄牛」を含む四つの名の中からタタンカ・イヨタケを選び、これを贈り名とした。幼いころから思慮深く、悠然と構えていたので、次に「ゆっくり」を意味するハンケシュニーという名がつけられた。女ばかりの兄弟のなかで男は彼一人であった。
ハンケシュニーは父から、いつでも矢を持って飛び出せるよう戦士としての教育を受けた。8歳のとき、川向うで叔父のフォア・ホーンが狼の鳴き真似をして茂みを揺らして脅かしたが、全く動じなかった。10歳で初めてバッファローを仕留め、12歳のときには、襲いかかった子牛の角をつかんで抑え込み、その背に飛び乗って乗り回した。14歳で、「クー数え」の戦に使う棒を父から与えられた。クー数えとは、敵の体を棒で触るか叩くことを栄誉とする、平原インディアンのスポーツであり、娯楽であった。少年はクロウ族との戦いに20騎ほどが出発したとき、あとをこっそりついて行き、最前線に飛び出して「クー」を加え、すばやく離脱した。父は大喜びし、このときタタンカ・イヨタケの名を息子に贈った。
1847年、15歳で夜間に仲間とクロウ族の村へ馬盗みに出かけ、大量の馬を盗んで帰る途上で追いつかれた。戦士と互いに馬を下りて撃ち合いになり、左足を銃弾が貫通した。クロウ族の戦士にナイフでとどめを刺したが、この怪我のために生涯片足を引きずって歩いた。17歳で初めて人を殺したが、これは慈悲心からの行いだった。女たちが捕虜のクロウ族の女を火炙りにしようとしたとき、哀れに思い、火に巻かれる前に弓矢で殺してやったのである。礼儀正しく親切だったので女たちからよくもてて、生涯で9人の妻を得た。夢で灰色熊とキツツキの声を聞き、その通りにして熊を倒し、爪を首飾りにした。ブラックヒルズの湖では高い岩山から呼ぶ声を聞き、鷲を見て、将来自分が大戦士になる予言と解釈した。
青年となった彼は、勇敢な戦士として名を高め、戦士団に加わり、25歳でストロング・ハート戦士団の最も勇敢な戦士として、赤い長帯を肩に掛ける栄誉を得た。この長帯は、戦になれば矢で端を地面に縫い付け、仲間が助けに来るまでその場にとどまって戦うためのものである。優れた呪術師として治療術にも通じ、部族民を助けた。仲間からは、冬の吹雪のなかでも風に逆らって進む「バッファローのような男」と呼ばれた。
1860年代、合衆国の植民はミシシッピ川を越えて大平原に及び、インディアンは駆除されて保留地に隔離され、領土は軍事力で奪われていた。1862年のダコタ・スー族の大暴動のあと、アメリカ軍は1863年に西部に遠征し、ここで初めてハンクパパ族は白人と戦った。1864年7月、サリー将軍の騎兵隊がターカホクチー山でスー族を襲うと、彼は防衛戦のなかで、理不尽な条約には決して署名しないと決意を固めた。1866年には、北部大平原の大戦士として、クレイジー・ホースと並び称され、翌年にはストロング・ハート戦士団の中心戦士となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャック・ソレ (1890年没)
- アレクサンダー・ジョン・エリス (1890年没)
- カルロ・コッローディ (1890年没)
- ローレンツ・フォン・シュタイン (1890年没)
- アレクサンダー・ゲオルク・ブンゲ (1890年没)
同じ地域に関係する人物
- ヒュー・グラス (1833年没)
- サカガウィア (1812年没)
- Mary Sherman Morgan (2004年没)