伝記
アムライブ・クアラン(オラフ・クアラン)は、10世紀のノース・ゲール系の人物で、ノーサンブリア王およびダブリン王を務めた。クアランというあだ名は、一般に「サンダル」の意味に訳される。ヨークでの短い統治に関しては、オラフ・シヒトリクソンやアンラフ・シヒトリクソンなど、英語化された名でも呼ばれる。ウイ・イーマイルと呼ばれる一族の中で、ブリテン諸島の政治に重要な役割を果たした最後の人物とされる。
一族の祖とされるイーマルは、873年にアルスター年代記が死去を記した「ブリテンとアイルランド全域のノース人の王」と同一視されるのが通例で、大軍勢を率いたイーヴァル・ボーンレスとの同一視は確実ではないものの、ありえないことでもないという。アムライブはおそらくイーマルの曽孫で、父はシトリウク(927年没)である。シトリウクは917年にダブリンを奪い、のちにノーサンブリアを統治した。926年1月30日にタムワースでアゼルスタン王の妹と結婚したことがアングロサクソン年代記に記される。後世の史料には、アムライブがこの結婚で生まれた子だとするものがあり、歴史家ベンジャミン・ハドソンは、この情報をでっち上げる理由は見当たらないと述べている。兄弟には、ダブリン王ゴフライド(951年没)やリムリックの支配者アラルト(940年没)がいた。
父の死後、アムライブは一時ヨークの王になったかもしれないが、アゼルスタンがノーサンブリアを手に入れ、叔父ゴフライドを破ると、その支配は終わったという。マームズベリのウィリアムによれば、アムライブはアイルランドへ逃れた。937年、ゴフライドの子のアムライブがアルバ王コンスタンティンらの助けを得てアゼルスタンを攻めたが、ブルナンブルフの戦いで敗れた。ウィリアムは、クアランがこの戦いに加わり、前夜に吟唱詩人に変装してイングランド軍の陣営を探ったと記している。939年にアゼルスタンが没し、異母弟エドマンドはヨークを保てなかった。ゴフライドの子アムライブがダブリンから渡ってノーサンブリア王として受け入れられ、941年に没した。この時期の経歴については近年ケヴィン・ハロランが異論を唱えており、議論が続いている。
アムライブ・クアランは、ノーサンブリアでは二度、おそらく三度王となり、ダブリンとその属領でも二度王となった。その統治は約40年に及ぶ。優れた戦士として知られた一方、教会を容赦なく略奪する者でもあった。しかし晩年は、アイオナ修道院に引退して過ごしたという。彼が生まれた頃、ウイ・イーマイルはブリテン諸島の広い地域を支配していたが、死ぬ頃のダブリン王国はアイルランド政治における小勢力にすぎなくなっていた。その一方でダブリンは大西洋沿岸ヨーロッパの交易の中心地となり、この都市と富を押さえることがアイルランドの野心的な王たちの最大の目標になった。
アイルランドの詩人やスカンディナヴィアの吟唱詩人を庇護し、彼らは雇い主をたたえる詩を作った。少なくとも二度結婚し、多くの子はアイルランドやスカンディナヴィアの王家と婚姻を結んだ。子孫は13世紀までマン島やヘブリディーズ諸島の王であった。没後、その姿は中世英語のロマンス『デーン人ハヴェロック』の主人公の原型となった。没年は980年とも981年ともされる。ゲータという娘がノルウェーのオーラヴ・トリュグヴァソンに嫁いだと『ヘイムスクリングラ』は伝えるが、その娘はおそらくアムライブ・クアランの娘であったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァイセンブルクのアーダルベルト (981年没)
- Luitgarde of Vermandois (981年)
- 景宗 (高麗王) (981年没)
- Pandulf Ironhead (981年)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・アーサー・ミルン (1950年没)
- ジョン・クランコ (1973年没)
- セアボール・オダラー (1978年没)
- フラン・オブライエン (1966年没)
- フレデリック・キャヴェンディッシュ (1836-1882) (1882年没)