伝記
リュサンドラは、エジプトを治めたプトレマイオス1世ソテルの娘である。母はアンティパトロスの娘エウリュディケーとされるが、ベレニケとする説もある。兄弟に、のちにマケドニアで王となるプトレマイオス・ケラウノスがおり、同じ母から生まれた姉妹にはデメトリオス・ポリオルケテスの妻となったプトレマイスがいたという。紀元前3世紀前半の人で、生年は伝わっていない。最初の夫は従兄弟にあたるアレクサンドロスで、カッサンドロスの子である。紀元前297年8月に夫はマケドニア王となったが、3年後、デメトリオス・ポリオルケテスの命で殺された。夫の死後、リュサンドラは隣のトラキアへ逃れ、デメトリオスの敵であるリュシマコスのもとに身を寄せたとされる。エジプトの父のもとへ戻ったとする別の説もある。
次の夫は、リュシマコスの子アガトクレスである。パウサニアスによれば、この結婚はリュシマコスがゲタイ人のもとから戻った後、紀元前292年ごろのことだった。同じパウサニアスは、リュシマコスがアルシノエと結婚した時点で、アガトクレスにはすでにリュサンドラとの間に子がいたとも述べる。一方、プルタルコスによれば、父と子は紀元前300年ごろに同時にプトレマイオスの娘たちと結婚した。この食い違いをめぐり、二重の婚礼は計画されただけだったとする説、アガトクレスが二度結婚したとする説、同名の姉妹が二人いたとする説などが出された。古代の記述の誤りと見て、リュサンドラは一人だけだったとする研究者もいる。
アガトクレスは長男として父の後継者になるはずだった。しかしアルシノエは自分の子に王国を継がせようと企み、アガトクレスを陥れた。リュシマコスは妻の言葉に従って息子の排除を決め、アガトクレスは投獄されたのち、異母兄弟でアルシノエの長男プトレマイオス・エピゴノスの手で殺されたという。その後、アガトクレスの支持者への弾圧が始まった。リュサンドラは子どもたち、兄のケラウノス、そして夫の異母兄弟アレクサンドロスとともにセレウコス1世ニカトールの宮廷へ逃れ、復讐を訴えた。アッピアノスは亡命者の到着地をバビロンとするが、当時その地方は王の子アンティオコスが治めていたとして、この話を後世の見方による脚色とみる研究者もいる。
当時、後継者たちの間の関係は緊張していた。セレウコスはこれを新たな戦争の口実とし、亡命者たちの影響力を利用しようとした。紀元前281年のコルペディオンの戦いでリュシマコスは戦死し、その王国はセレウコスの手に落ちた。パウサニアスによれば、このときリュサンドラはセレウコスの随行者の中にいた。彼女は長い説得の末に、リュシマコスの子アレクサンドロスが父の遺体を葬ることを認めたという。ただし、この場面は伝説や文学的な型に似ているとの指摘がある。
これ以後、古代の記録にリュサンドラは現れない。子どもたちが記録に出るのもこの一度だけで、名は不明である。長男が祖父にちなんでリュシマコスと名づけられたのではないかという推測もあるが、男子の子孫がいた証拠はないとする研究者もいる。セレウコスがケラウノスに殺されたのち、彼女と子どもたちが側近に殺されたとする仮説がある一方、セレウコス朝の領内で私人として暮らしたとする見方や、ケラウノスが先に送り出していたとする見方もある。さらに、ビテュニア王ニコメデス1世の兄弟と三度目の結婚をしたとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・フルウィウス・フラックス (紀元前264年の執政官) (紀元前 300年(推定))
- 小ケフィソドトス (紀元前 300年(推定))
- ガイウス・ドゥイリウス (紀元前 300年(推定))
- Cineas (紀元前300)
- クレオンブロトス2世 (紀元前 300年(推定))
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