伝記
ジェームズ・プレスコット・ジュールは、1818年12月24日にマンチェスター近郊のサルフォードで、裕福な醸造家の次男として生まれたイギリスの物理学者である。生涯、大学などの研究職に就くことなく、家業の醸造業を営むかたわら研究を行った。ジュールの法則を発見し、熱の仕事当量の値を明らかにするなど、熱力学の発展に重要な寄与をした。熱量の単位ジュールに、その名をとどめている。病弱だったために正規の学校教育は全く受けず、自宅で家庭教師について学んだ。家庭教師の1人は原子論で有名なジョン・ドルトンで、1834年から3年間、科学や数学の初歩を学んだ。成人後は、自宅の一室を改造した研究室で実験を行った。
はじめに取り組んだのは、ボルタ電池を使った電動機の実験で、電磁石の引力が電流の2乗に比例することを発見した。ボルタ電池で大きな電流を流せば効率のよい動力が作れると考えたが、亜鉛などが消費されるため、蒸気機関を超えられないと分かった。そこで関心は電流そのものに向かい、電気のエネルギーが熱に変わることに注目した。水に入れた導線に電流を流して水温の上昇を測り、電流によって発生する熱量が、電流の2乗と導体の電気抵抗に比例することを発見した。1840年に王立協会に発表し、さらに詳しい論文を雑誌に発表した。これが現在ジュールの法則と呼ばれている。
当時の熱学には、熱を物質とするカロリック説と、運動とする説の2つがあった。1843年、おもりの力で水中のコイルを回転させ、誘導電流による水の温度上昇を測ると、コイルの温度変化はなく、熱は新たに生み出されたものだと確かめられた。この実験で熱の仕事当量も測った。その1か月後には、細管から水を押し出すときの発熱で別の値を得て、電流を使わない実験から、熱は機械的な力そのものによって生じると結論した。1844年には気体の膨張と圧縮で仕事当量を求め、気体を単に膨張させても温度が変わらないことを確かめて、「膨張の潜熱」の考えを否定した。これらの結果は王立協会で発表されたが、評価されなかった。ばらつきが大きく、ジュールがまだ無名だったためでもあった。
1845年には、おもりの重さで水中の羽根車を回し、水温の上昇を測る実験を始めた。温度の変化を華氏0.005度の単位で測定でき、当時は他に誰も実現できない精度だった。1847年の2度目の発表では、事前に司会から手短に済ませるよう注意されたが、聞いていたウィリアム・トムソンが立ち上がって関心を示し、二人は親交を深めた。この少し後にアメリア・グライムスと結婚し、新婚旅行でスイスに出かけたとき、旅行中のトムソンと偶然に出会った。トムソンによれば、ジュールは滝の下の水が上より温かいかを確かめようと、温度計を持っていたという。1849年の羽根車の実験はファラデーの紹介で発表され、翌年に王立協会フェローとなった。1852年からはトムソンと共同で、気体を膨張させると温度が下がることを確かめた。これが現在ジュール=トムソン効果と呼ばれている。
1854年に妻アメリアを亡くし、1858年には父を失い、汽車の事故にも遭って、以後は汽車の旅を避けた。1860年にオーエンズ・カレッジに物理学教授の職ができたときも、応募しなかった。1870年にはコプリ・メダルを、1872年には英国科学振興協会の会長に選ばれたが、1875年には財産が底をついた。1878年以降は政府から年200ポンドの年金を受けて、生活が確保された。マイヤー、ヘルムホルツとともに、エネルギー保存則の発見者とみなされる。1889年10月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- エミール・オージエ (1889年没)
- アルフレト・ユゼフ・ポトツキ (1889年没)
- アントニオ・メウッチ (1889年没)
- マリー・フォン・プロイセン (1825-1889) (1889年没)
- フュステル・ド・クーランジュ (1889年没)
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