伝記
エドガーは、944年ごろに生まれ、975年7月8日に没した10世紀のアングロサクソン人のイングランド王である。在位は959年から975年まで、平和王とも呼ばれる。父はエドマンド1世、母は妃エルフギフで、その次男として、母が亡くなった943年か944年に生まれた。エルフギフは尼僧のための寺院の有力な後援者で、死後はその修道院に葬られ、列聖された。歴史家は、エドガーの治世について詳しく伝える資料が乏しく、王の人格も捉えがたいものだとし、彼を「謎めいた人物」と表現する。当時の年代記編者や修道士は、教会の指導者たちの活動を書くことに力を注いだため、王の治世の出来事はあまり記されなかった。アングロサクソン年代記にも、この治世に関する記述はわずか10か所しかない。
946年5月に父エドマンドが、無法者に襲われた家令をかばって殺されると、兄エドウィとエドガーはまだ幼く、王位は父の弟エドレッドが継いだ。幼いエドガーは、イーストアングリア太守アゼルスタン半王の妃のもとで育てられ、958年には、その謝意として彼女に、ハンティンドンシャーの10ハイド(約400ヘクタール)の土地を与えた。半王は修道院改革派の強力な支援者で、ダンスタンの親友でもあったため、エドガーは修道院改革の理想が支配的な雰囲気のなかで成人した。修道士への愛情や、ベネディクト会修道制度の復興への決意の一部は、この家で培われたに違いないと歴史家は見る。エドレッドが死の間際にアビントンの修道院を、のちのウィンチェスター司教エゼルウォルドに与えると、エドガーはそこでも教育を受け、美徳への信念を深めた。
955年11月、エドレッドの死で兄エドウィが王位を継ぐと、エドウィは古参の重臣と対立し、ダンスタンは亡命を強いられた。エドガーは955年から957年にかけて兄の宮廷で目立つ存在で、多くの勅許状に兄と並んで署名し、一つでは副王と記されている。兄の死後、エドガーは全イングランドの王となった。
エドガーは基本的に以前の王の政策を踏襲したが、宗教政策では大きな変化をもたらした。彼が強く支援した修道院改革は、イングランドで宗教的にも社会的にも支配的な勢力となり、ウィンチェスター司教を中心とする文学と芸術の開花をともなった。修道院はこの助力を得て、世俗領主から多くの土地を得たため、王の死後には世俗領主との対立が生じ、時には武力衝突も起こった。970年代初めには、分散していた貨幣制度を改めて、統一硬貨制度を導入し、法の執行手続きの改善を主眼とする法典も出したとされる。それまで約1世紀にわたってヴァイキングの襲撃に苦しんだイングランドは、この治世には一度も襲撃を受けなかった。
王の死後、王位は息子のエドワードとエゼルレッドが争った。ダンスタンが支持した長男エドワードが王位に就いたが、3年後に暗殺され、弟がエゼルレッド2世として即位した。後世の年代記編者は、エドガーの治世を、外敵や内乱のない黄金時代として描き、波乱の多かったエゼルレッド2世の治世と比べて称えた。現代の歴史家は、その治世をイングランド王国の絶頂期と見るが、政治的な遺産については意見が分かれ、死後の混乱を強権的な支配への反動とする者もいる。
同じ年に亡くなった人物
- アダルベルト2世 (975年没)
- ティボー1世 (ブロワ伯) (975年没)
- Adikavi Pampa (975年)
- 光宗 (高麗王) (975年没)
- オーロフ・ビョルンソン (975年)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・ボイジー (1941年没)
- ジェームズ・リンド (1794年没)
- トーマス・ベアリング (初代ノースブルック伯爵) (1904年没)
- クリストファー・コッカレル (1999年没)
- アイザック・ウォルトン (1683年没)