HISTORICAL PERSON · 1888年没

フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)

第8代プロイセン国王・第2代ドイツ皇帝。自由主義者で国民に我らがフリッツと呼ばれ親しまれたが、父ヴィルヘルム1世とビスマルクに疎んじられた。喉頭癌のため在位99日で死去し、百日皇帝とあだ名される。

生涯
1888年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州 / ポツダム新宮殿)
出生地
ドイツ連邦共和国(ポツダム新宮殿)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州)

伝記

フリードリヒ3世は、1831年10月18日にポツダムで生まれ、1888年6月15日に没した第8代プロイセン国王・第2代ドイツ皇帝である。在位は1888年3月9日から6月15日までのわずか99日で、このため「百日皇帝」とも呼ばれる。自由主義者で、国民には「我らがフリッツ」と呼ばれて親しまれたが、父ヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクには疎んじられ、政治的な影響力を持つことはなかった。父ヴィルヘルムと母アウグスタとのあいだに生まれ、家庭では「フリッツ」と呼ばれた。両親は正反対の性格で、結婚は幸福なものではなく、フリードリヒは騒がしい家庭で孤独な幼少期を過ごしたとされる。父の軍人らしい質実剛健さと、母の貴族的で洗練された気質の両方を受け継いだ。

母の勧めでボン大学に学び、歴史学、文学、法学を修めた。一方で父は軍務を強い、ホーエンツォレルン家の伝統に従って、大モルトケのもとで軍事学を若いころから学ばせた。彼はそのどちらからもよく学び、英語とフランス語に堪能で、歴史、地理、物理、宗教、音楽にも詳しかった。1851年、モルトケの助言に従ってロンドンの万国博覧会に赴き、ヴィクトリア女王の長女でヴィッキーと呼ばれた王女ヴィクトリアと知り合った。1858年1月25日、陸軍中将になっていたフリードリヒとヴィッキーはベルリンで結婚し、のちのヴィルヘルム2世を含む4男4女をもうけた。夫妻はともに自由主義的な考えを持ち、家庭教師には著名な考古学者エルンスト・クルティウスがついていた。ヴィクトリア女王の夫アルバート公を敬愛し、アルバートと女王のように夫婦で統治して、ビスマルクが自分のために築いた行政権のあり方を改めたいと考えていたという。宰相の役割は英国式の内閣に置き換えられ、閣僚が帝国議会に責任を負う構想だった。

1862年、保守的なヴィルヘルム1世が軍の指導権をめぐって議会の反対に遭い、フリードリヒへの譲位を望む声が高まった。妃の影響もあり、自由主義的な人物と広く知られていたためである。しかし父王は駐仏大使ビスマルクを宰相に据え、その手腕で議会の反対を乗り切ったため、フリードリヒは王太子にとどまった。平和主義者でありながら軍人としての有能さも示し、1866年の普墺戦争のケーニヒグレーツの戦いや、1871年の普仏戦争のセダンの戦いでは、プロイセンの勝利のために重要な役割を果たした。普墺戦争ではプール・ル・メリット勲章、普仏戦争では大鉄十字章を授けられた。ビスマルクの統一政策とは対立したが、その方針を理解し、帝位に就くことをためらう父に、ドイツ皇帝としての戴冠を勧めている。

国民は自由主義的で有能な皇太子に期待を寄せたが、ヴィルヘルム1世が長寿だったため、即位したのは56歳になっていた。しかも前年に発症した喉頭癌に蝕まれていたうえ、ヴィクトリア女王が送ったイギリスの医師団と、地元の宮廷医師団との勢力争いのため、適切な治療を受けることができなかったという。病状は進み、政治的にも何もなしえないまま、1888年6月15日に即位から99日で崩御した。皇太子ヴィルヘルムがヴィルヘルム2世として跡を継いだ。もし長生きしていれば、帝国を自由主義的にできたかどうかは、今も論じられている。

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