伝記
サンチョ1世は、10世紀半ばのレオン王である。935年ごろに生まれ、966年に没した。極度の肥満から肥満王(エル・クラソ)とも呼ばれた。父はレオン王ラミロ2世、母はその2度目の王妃ウラカ・サンチェスで、母方の祖母はパンプローナ王女トダである。在位は956年から958年と、960年から966年の二度に分かれる。
951年に異母兄オルドーニョ3世が即位すると、サンチョは自らの王位継承権を主張して対立した。祖母トダや貴族の一部、さらにオルドーニョの義弟にあたるカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスの支持を得ていたとされるが、オルドーニョはレオンの城壁のそばでこれを破った。956年にオルドーニョ3世が急死すると、サンチョはようやく即位した。母ウラカ・サンチェスはパンプローナ王サンチョ・ガルセス1世の娘で、トダはその母にあたる。しかし、その2年後の958年、あまりに太っていることを理由に、フェルナン・ゴンサレスに率いられたレオンとカスティーリャの貴族たちによって退位させられ、いとこのオルドーニョ4世が王に立てられた。サンチョはオルドーニョ3世が結んだコルドバとの和平を守ろうとせず、957年にコルドバ軍に敗れて威信を落としたことも、廃位を後押ししたといわれる。
王位を失ったサンチョは祖母トダのもとへ行き、助力を求めた。トダは後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラフマーン3世と交渉し、ドゥエロ川沿いの土地を譲る代わりに、宮廷に仕えるユダヤ人医師ハスダイ・イブン・シャプルトによる肥満の治療と、王位回復への軍事的な支援を取りつけた。トダとサンチョ、王妃テレサ・アンスレスは958年にコルドバへ旅した。ハスダイはサンチョに、40日間お茶のほかは口にしないよう命じたと伝えられ、体重は240キロあったともいわれる。協定が結ばれたのち、パンプローナとイスラームの連合軍が959年の春にサモーラを、960年の後半にレオンを占領した。サンチョは復位し、オルドーニョ4世はアストゥリアスへ逃れた。
復位後のサンチョは、イスラム教徒と交わした約束の大半をすぐに忘れた。そのため、イスラム側は今度はオルドーニョ4世を支援したが、衝突は数度の襲撃にとどまった。治世の末期には貴族の反乱が相次ぎ、カスティーリャとガリシアの伯たちの独立性が強まった。966年にはレオンにサン・ペラーヨ修道院を創建し、コルドバで殉教した聖ペラーヨの遺骨をこの町へ移した。この修道院はのちに宮廷付きの修道院となり、修道女となった王女や寡婦となった王妃が入る場になった。
同じ966年、サンチョは毒を盛られて急死した。年代記家サンピロの記述では、ガリシアの貴族ゴンサロが毒入りのリンゴを与えたとされ、場所はガリシアのカストレロ・デ・ミーニョの修道院だったという。このゴンサロを、反乱を起こした伯ゴンサロ・メネンデスとする説もあるが、確定していない。正確な死去の日は不明で、11月15日から12月19日の間と考えられている。遺体はカストレロ・デ・ミーニョの修道院に葬られた。死去の時期は、最後の勅許状に名が見える11月15日と、息子ラミロ3世の最初の勅許状の日付である12月19日から推定されている。妻テレサ・アンスレスは、モンソン伯でカスティーリャ伯のアンスル・フェルナンデスの娘で、959年3月以前に結婚した。二人のあいだにはラミロ3世とウラカが生まれ、サンチョの死後はラミロ3世が王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ベレンガーリオ2世 (966年没)
- イブラーヒーム・イブン・ヤアクーブ (966年)
- ベネディクトゥス5世 (ローマ教皇) (966年没)
- フロドアルト・フォン・ライムス (966年)
- アブル=ハサン・アリー・ブヌル=イフシード (966年)
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