伝記
バルシネは、紀元前363年頃に生まれ、紀元前309年に没したペルシアの女性である。フリギアのサトラップだったアルタバゾス2世の娘で、のちにアレクサンドロス3世の側室となったことで知られる。
紀元前358年、父アルタバゾスは王アルタクセルクセス3世に反旗を翻した。反乱では、ロドス島出身の傭兵の兄弟メントルとメムノンが軍を率いたとされる。同盟のしるしとして、アルタバゾスはこの兄弟の姉妹を妻に迎え、メントルは幼かったバルシネを妻とした。ただし、バルシネがまだ若かったため、この結婚は実のあるものにはならなかったという。反乱は敗れ、一家はマケドニアの都ペラに逃れ、ピリッポス2世の宮廷でおよそ十年を過ごした。そこでバルシネは、自分より8、9歳年下の王子アレクサンドロスや哲学者アリストテレスと同じ宮廷にいたとされ、ギリシア語も流暢に話すようになった。
一方、メントルはペルシア王に赦されてその軍に仕え、西方の司令官に任じられた。その見返りとして、紀元前342年にアルタバゾスの一家は帰国を許され、バルシネは夫と再会した。しかしメントルはそれから二年ほどで世を去った。夫妻の間には娘が一人あり、この娘はのちにネアルコスの妻となる。バルシネは間もなく、夫の弟メムノンの妻となった。メムノンにはすでに前の結婚で生まれた子が何人かあった。
紀元前334年、アレクサンドロス3世がアジアへ侵攻すると、メムノンは忠誠の証として、バルシネと子供たちを人質としてダレイオス3世のもとへ送った。メムノンはグラニコス川の戦いでペルシア軍が大敗したのちも、その手腕を買われて西方の総帥に任じられた。人質となったバルシネは、彼を忠実につなぎとめる役目を負っていた。メムノンは翌年の紀元前333年に病死し、バルシネの兄弟ファルナバゾスがその後を継いだ。二人は300隻ほどの艦隊でエーゲ海を押さえ、マケドニアの補給路を脅かし、スパルタ人の蜂起をうながし、マケドニア本土へ戦火を持ちこめるところまで迫った。しかしダレイオスがイッソスの戦いで敗れ、この勢いは失われた。その後、ダマスカスがマケドニアに占領されたとき、バルシネはアレクサンドロスの手に落ちた。一方、ティルスの攻囲のころにダレイオスの女たちとともに捕らえられたとする記述もある。いずれにせよ彼女は幼いころからの知人であったアレクサンドロスの側室となり、父アルタバゾスが降伏してアレクサンドロスの信頼を得たのちも、ソグディアナの遠征に同行したと伝えられる。
紀元前327年ごろ、バルシネは息子ヘラクレスを産んだ。彼女はアレクサンドロスの子だと述べたが、妊娠や、のちに母子が現れたいきさつの不自然さから、実子ではなかった可能性が高いともいわれる。アレクサンドロスはほどなくロクサネを妻に迎え、バルシネは息子とともに宮廷を去って、西のペルガモンで暮らしたとされる。息子の名は、マケドニア王家が祖と仰ぐ神話の英雄にちなむ。アレクサンドロスが没した紀元前323年には、ロクサネが正統の子アレクサンドロス4世を産んでおり、母子は宮廷を離れていたため、ヘラクレスは将軍たちの王位継承をめぐる争いにほとんど関与しなかった。そのなかで、バルシネの娘の夫となっていたネアルコスだけは、ヘラクレスを王位に就けようと画策したが、成功しなかった。やがて紀元前309年、バルシネは息子とともに、カッサンドロスの命を受けたポリュペルコンによって殺された。