HISTORICAL PERSON · 958年没

トダ・デ・パンプローナ

パンプローナ王妃。幼い息子の摂政を務め、後ウマイヤ朝カリフとの外交で孫サンチョ1世の肥満治療を実現させた。

生涯
958年没
死亡地
スペイン王国(ナバラ州 / パンプローナ)
出生地
スペイン王国(パンプローナ)
出典
世界地図
スペイン王国(ナバラ州)

伝記

トダ・アスナーレス・デ・パンプローナは、パンプローナ王サンチョ・ガルセス1世の妃で、10世紀前半のイベリア半島北部で摂政と外交によって王国の舵を取った女性である。生年は876年1月2日ともいわれ、没年は958年10月15日である。

父はララウン領主アスナール・サンチェス、母はオネカ・フォルトゥネスで、両親は従兄妹どうしであったとされる。父方ではパンプローナ王ガルシア・イニゲスの男系の孫にあたり、母はパンプローナ王フォルトゥン・ガルセスの娘であった。したがってトダは、パンプローナの前王家であるイニゴ・アリスタ家の子孫である。また、トダはコルドバのカリフ、アブド・アッラフマーン3世の叔母とも又従姉妹ともいわれる。サンチョ・ガルセス1世との間には一男五女が生まれたとされ、娘のウラカはレオン王ラミロ2世に、オネカはレオン王アルフォンソ4世に嫁いだ。サンチャはレオン王オルドーニョ2世、アラバ伯、カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスと三度結婚した。

夫サンチョ・ガルセス1世は、息子がまだ幼いうちに亡くなり、跡はヒメノ・ガルセスが継いだ。931年にヒメノが死去すると、トダは幼い息子ガルシア・サンチェス1世の摂政および後見人となった。934年、カリフ自らが軍を率いてパンプローナ王国の方角へ進んだとき、トダは親族の絆を訴えて和平を求めた。カリフはその証として、トダ自身が陣営に出向くことを求めた。トダは従者を連れてカリフが陣を張るカラオラに赴き、高い礼遇で迎えられた。ここでトダは臣従を誓い、不可侵と協力の条約を結んだ。カリフは息子ガルシアをパンプローナ王とその領域の支配者として認めた。この措置は、ガルシアを母の直接の支配から解き放つための行いと解釈されることもある。条約の後、イスラム軍は同盟国となったパンプローナ王国を通ってレオン王国へ進み、アラバとカスティーリャを荒らした。937年にはトダが条約に違反し、過酷な遠征を余儀なくされた。スイスのザンクト・ガレン修道院の修道士による956年の短い記録は、939年のシマンカスの戦いでのイスラム側の敗北を、王妃トダの勝利としている。

晩年の958年、トダは孫でレオン王のサンチョ1世のことで動いた。サンチョ1世は「肥満王」と呼ばれ、主に肥満が理由で退位させられていた。レオンやカスティーリャの貴族には好まれず、フェルナン・ゴンサレス伯らが王座から追い、オルドーニョ4世を王に立てたのである。トダは、良い医師がいることで知られるカリフの支援を求めた。カリフは自らのユダヤ人医師ハスダイ・イブン・シャプルトを送ることにし、トダがコルドバを訪れることを条件に、サンチョ1世を治すと約束した。こうしてトダは、息子のガルシア、孫のサンチョ1世、貴族や聖職者とともにコルドバに入り、十分な栄誉と豪華なもてなしを受けた。ハスダイは約四十日間、煎じ薬を飲ませる食事療法でサンチョ1世を治療し、サンチョは過度の肥満から解放された。キリスト教徒の王妃の来訪はカリフの名声を高め、この訪問は中世外交史上の画期的な出来事とみなされている。のちにカリフ、トダ、サンチョの連合軍がレオン王国を攻め、オルドーニョ4世を退けたという。

トダは娘たちの政略結婚を通じてレオン王家などと縁を結び、精力的に外交を進めた。この婚姻の網はパンプローナ王国の影響力をレオン王国に広げたとされる。墓所は、当時パンプローナ王国に属していたスソ修道院の前庭にある簡素な石棺で、2001年からは、パンプローナのロチャペア地区にトダの名を冠した通りがある。

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