伝記
リウドルフ(ロイドルフ)は、930年ごろに生まれ、957年9月6日に没したシュヴァーベン大公である。在位は950年から954年。皇帝オットー1世と最初の妃エドギタとの間の長男で、のちに父王に対して反乱を起こしたことで知られる。生地はマクデブルクとされるが、確かではない。
母エドギタは946年に亡くなったが、父からは溺愛され、同年のうちに後継者とされた。リウドルフは939年にはコンラディン家のシュヴァーベン大公ヘルマン1世の娘イダと婚約していた。949年にヘルマン1世が死去すると、義父の跡を継いでシュヴァーベン大公に任じられた。領民に慕われた統治者であったともいわれる。
転機は951年の第一次イタリア遠征であった。リウドルフは父の了承を得ないままイタリアへ侵攻し、イタリア王ロターリオ2世の寡婦で、ベレンガーリオ2世に捕らえられていたアーデルハイトを救い出したが、叔父でバイエルン大公のハインリヒ1世と先陣を争い、父の怒りを買って功績も認められなかった。同じ遠征に加わっていた義弟のロートリンゲン大公コンラートも、ベレンガーリオ2世との交渉をめぐってハインリヒの横槍を受け、面目をつぶされた。こうしてリウドルフとコンラートは、ともにハインリヒ1世とオットー1世に不満を抱くようになった。さらにオットー1世がアーデルハイトと再婚し、952年に異母弟ハインリヒが生まれると、リウドルフは自らの王位継承に不安を覚えた。
953年、オットー1世はリウドルフ派のマインツ大司教フリードリヒのもとを訪れ、ハインリヒ1世の排除とリウドルフの王位継承を保証する契約を結んだ。ところがすぐにこれを破棄し、コンラートからロートリンゲン大公位を奪った。これを受けて、リウドルフにはコンラート、フリードリヒ、バイエルン宮中伯アルヌルフらが味方し、反乱が起こった。この反乱は東フランク王国に大きな危機をもたらした。しかし翌954年、リウドルフの了解のもとでハンガリー人が侵攻して各地を略奪したため、味方についていた者たちが離反した。同年6月、ランゲンツェンの帝国議会でフリードリヒとコンラートは父王と和解した。リウドルフはなおレーゲンスブルクに立てこもったが、オットー1世に包囲されて市民が飢えるに至り、ついにチューリンゲンで贖罪服を着て父の前に現れ、屈服した。
リウドルフはシュヴァーベン大公位を剥奪され、同位は以前の保持者であるブルヒャルディング家のブルヒャルト3世に与えられた。ブルヒャルトはイダの異父兄にあたる。それでも956年、父の命でベレンガーリオ2世を討つため再びイタリアへ向かい、ベレンガーリオを敗走させた。だが翌957年、マラリアにより死去した。死去した地はノヴァーラ近郊のポンビアとされる。遺体はマインツへ送られ、庶兄ヴィルヘルムによって、市壁の外にある聖アルバン教会に葬られた。イダとの間には、のちにエッセン女子修道院長となる娘マティルデ(949年から1011年)と、息子オットー(954年から982年)が生まれた。オットーは後にシュヴァーベン大公(973年から982年)、バイエルン大公(976年から982年)となった。一方、961年にオットー1世が後継者としてローマ王に選ばせたのは、アーデルハイトとの間の息子オットーであった。異母弟ハインリヒは954年に世を去っていた。この反乱は父子の対立であると同時に、有力諸侯を巻き込んだ争いでもあった。
同じ年に亡くなった人物
- イスタフリー (957年)
同じ地域に関係する人物
- パスクアーレ・フォルナーラ (1990年没)
- カルロ・コッチャ (1873年没)
- Lorenzo Antonetti (2013年没)
- イサベラ・レオナルダ (1704年没)
- Luigi Cantone (1997年没)