伝記
ジルベール・ド・シャロンは、10世紀のブルゴーニュの有力者である。900年頃に生まれ、956年4月8日に没した。名はギゼルベルトとも書かれる。シャロン伯、オータン伯、ボーヌ伯、トロワ伯、アヴァロン伯、ディジョン伯を兼ね、952年から956年までブルゴーニュ公の地位にあったとされるが、古い歴史叙述がジルベールを正式な公と見なしたのに対し、近年は、公爵ではなく、ブルゴーニュの主席伯としてその統治を預かったと見る立場もある。
シャロン伯マナセと、プロヴァンス王ボソの娘とされるエルメンガルドの子で、兄弟にはシャロン伯ウォロンらがいた。公的な経歴は920年、オータン教会に関する証書に子爵として現れるところから始まる。924年には兄ウォロンとともに、叔父のオーセール子爵ルナールがモン・サン・ジャン城を奪うのを支援したが、城は間もなく国王ラウールに取り返された。のちにジルベールは妻エルマンガルドとともに、マコネ地方の荘園をクリュニー修道院に寄進している。928年以後、ディジョン地方で父の所領を回復していた兄が史料から姿を消すと、ジルベールがそれを受け継いだ。
妻エルマンガルドは、ブルゴーニュ公ユーグ黒公の姉妹とされる。943年、国王はユーグ大公をフランク人とブルグント人の公として確認し、黒公とジルベールには大公への援助と助言が義務づけられた。952年に黒公が没すると、ジルベールはオータン辺境領を、リエタールはマコンを受け継ぎ、ふたりとも主席伯の称号を帯びた。大公は公領の統治をジルベールに委ね、その代わりにジルベールは娘のひとりを、大公の子オトンに嫁がせることを約束した。
ジルベールはブルゴーニュの独立を保つことができず、955年にパリ伯ユーグの臣下となって、長女をその子オトンと結婚させることを強いられた。娘のリューガルは953年にオトンと婚約したとされる。もうひとりの娘アデライードは、ヴェルマンドワ伯の子でモー伯のロベールと結婚した。
ジルベールは956年の復活祭のころに没した。息子がいなかったため、公位は娘婿オトンが継いだ。
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