伝記
ルートヴィヒ2世は、1845年8月25日にミュンヘンのニンフェンブルク城で生まれた第4代バイエルン国王(在位1864年〜1886年)である。父はのちのマクシミリアン2世、母はプロイセン王女マリーで、福音主義教会の信徒だったが、1874年にカトリックに改宗した。両親は当初オットーと名付けるつもりだったが、祖父ルートヴィヒ1世が自分の名を与えることを主張した。3年後の1848年に弟オットーが生まれ、同じ年に祖父が退位して父が国王に即位したため、彼は王太子となった。兄弟は主にホーエンシュヴァンガウ城で幼い日々を過ごし、そこで中世の伝説や物語に早くから触れた。父は執務に忙しく、父子の仲は親密でなかった。余暇には、シラー、ゲーテ、シェイクスピア、ワーグナーなどの戯曲やニーベルンゲンの歌のような伝説を読んで過ごし、大きな影響を受けた。ルイ14世を敬愛し、彼と同じく歯が悪いことをむしろ喜んでいたとも言われる。
1863年8月、ミュンヘンの宮殿でプロイセンの首相ビスマルクと会見した。ビスマルクは執務室にルートヴィヒ2世の絵を飾るほど好意を寄せ、ルートヴィヒは友情に近い尊敬の念を持っていたといわれる。ヴィッテルスバッハ家の一族であるオーストリア皇后エリーザベトにだけは、心を許していた。皇后は彼の将来を心配して、妹ゾフィー・シャルロッテを王妃に推薦し、1864年1月に二人は婚約した。しかし挙式の日取りが二度延期され、ゾフィーの父が最後通告を送ってくると、ルートヴィヒは立腹して婚約を解消し、エリーザベトも怒って彼と絶縁したという。
1864年3月10日に父が崩御して即位すると、幼い頃から憧れていた作曲家ワーグナーを宮廷に呼び寄せた。しかし悪い噂のあるワーグナーの招聘に多くの家臣が反対したため、1865年12月、彼をいったん追放した。以後は執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢だった騎士伝説を具現化すべく、中世風のノイシュヴァンシュタイン城をはじめ豪華な建築に力を入れるようになった。湖上の島にはヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキームゼー城を、大トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城も築いた。「メルヘン王」と呼ばれるほど城や宮殿を築き、ワーグナーの熱心な庇護者でもあって、バイロイト祝祭劇場も残した。1866年の普墺戦争では、バイエルンはオーストリア側で参戦することになり、戦争を嫌う彼は退位さえ考えたが、結局議会の要求どおり動員令に署名した。戦争には敗れ、バイエルンは多額の賠償金を支払った。
1870年、普仏戦争のさなかに弟オットーが精神に異常をきたした。ルートヴィヒはいっそう現実から逃れて昼夜が逆転した生活を送り、一人で食事をとりながら客人がいるように語ったり、夜中にそりで遊ぶ姿を住民に目撃されたりしたと伝えられる。築城費は予想以上に膨らみ、借金を重ねて、内閣と鋭く対立していた。危惧したバイエルン政府は廃位を計画し、1886年6月12日に彼を逮捕して廃位した。代わりに叔父のルイトポルトが摂政として政治を執った。ベルク城に送られた翌日の6月13日、シュタルンベルク湖で、医師とともに散歩に出た少しあとに、二人は水死体で発見された。死の詳細は今も謎のままである。知らせを受けた皇后エリーザベトは「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べたという。
同じ年に亡くなった人物
- イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ (1886年没)
- リチャード・ダッド (1886年没)
- フランツ・リスト (1886年没)
- アレクサンドル・ブートレロフ (1886年没)
- Geertruida Bosboom-Toussaint (1886年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴォルフガング・ケッペン (1996年没)
- Adolf von Hildebrand (1921年没)
- ヘルムート・グリーム (2004年没)
- ジョヴァンニ・パラトゥッチ (1945年没)
- アベリー・ブランデージ (1975年没)