HISTORICAL PERSON · 944年没

アブー・マンスール・マートゥリーディー

9〜10世紀にサマルカンドで活躍したスンニー派ハナフィー法学派の学者。アブー・ハニーファの教えを体系化し、弟子がマートゥリーディー派を形成、同派はオスマン帝国やムガル帝国でも優位に立った。

生涯
944年没
死亡地
ウズベキスタン共和国(サマルカンド州 / サマルカンド)
出生地
ウズベキスタン共和国(Maturid)
出典
世界地図
ウズベキスタン共和国(サマルカンド州)

伝記

アブー・マンスール・マートゥリーディー(853年-944年)は、9世紀から10世紀にかけてサマルカンドで活躍した、イスラム教スンニー派ハナフィー法学派の法学者であり、神学者、聖典解釈学者である。その教えを受けた弟子たちが、のちにスンニー派神学の正統の一つとされるマートゥリーディー派を形成した。

名はアブー・マンスール・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ブン・マフムードといい、「マートゥリーディー」という呼び名はサマルカンド近くの土地の名に由来する。ほかに「サマルカンディー」や「ハナフィー」とも呼ばれる。彼はその近くのマートゥリードという村あるいは地区に生まれた。一族はマディーナのアブー・アイユーブ・アンサーリーという教友の子孫とされ、この説は大征服の時代にサマルカンドに入植した他のアラブ人の系図からも裏づけられるという。

生涯について分かっていることは多くない。伝わる情報が伝記ではなく、人となりを示す断片的な逸話の束だからである。それでも、公的な地位に就いたことがなく、弟子の数もわずかで、学者としての一生を送ったことは確かだとされる。ブハラを都とするサーマーン朝とのかかわりを示す記録もない。師として名が伝わるのは、アブー・バクル・ジューズジャーニーとアブー・ナスル・イヤーディーの二人で、どちらも神学観の形成に大きな影響を与えた。現代では彼がスーフィーとして語られることは少ないが、10世紀ごろの中央アジアでは神学と神秘思想は区別されず、学者はスーフィーでもあった。複数の記録が彼を禁欲的な生涯を送った人物とし、起こしたとされる奇跡もいくつも記している。

教義では、信仰を心による承認と定義し、それは声に出して宣言されねばならないとした。行いは信仰の一部をなさず、信仰が物質的に増減することもないが、信仰の念を新たにし繰り返し心に抱くことで深まるという。クルアーンに現れる擬人的な表現には象徴的な解釈を支持した。ただしムァタズィラ派がその方法で導いた解釈の多くは退けた。また、啓示の文章を疑念なくそのまま読む方法も奉じた。行為については、人間は行う能力と意思を備えているが、人間の行為を創造するのは神であると考えた。同じ時代にイラクのアシュアリーも似た主張をしたが、神の属性の問題では両者は異なる。マートゥリーディーは最も本質的な属性を、永遠であるとして存在し続けることと考えた。彼の神学は、ムァタズィラ派やカルマト派のほか、キリスト教の諸派やマニ教の神学者との論争でよく主張された。二元論的世界観やイラン系宗教にも深い知識があり、それらを論駁した。その論駁を集めた『唯一性の書』は、現代ではマニ教やブラーフマ教などの思想に関する豊富な情報源になっている。ほかにクルアーンの解釈書やムァタズィラ派への反論の書などを著したとされる。

944年に没した。中世の一時期には、アシュアリーを護教論者の筆頭に置いて彼を過小評価する傾向があったが、中央アジアにはそれは当てはまらず、教説は次第に広まった。15世紀にはサマルカンドの墓地に霊廟が建ち、前近代を通して参詣者が絶えなかった。ハナフィー法学派とマートゥリーディー神学派の組み合わせは、ペルシア系やトルコ系の王朝が公認する教説となり、オスマン帝国やムガル帝国でも他派を圧倒する地位を得た。両派の学者自身は、マートゥリーディー派とアシュアリー派の違いを小さなものと考えており、両派は等しく正統とされる。

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