HISTORICAL PERSON · 943年没

太祖 (高麗王)

877年生まれの初代高麗王(在位918〜943年)で名は王建。松嶽を拠点に貿易で財をなした豪族王隆の子。後高句麗の弓裔に従い松嶽城主・鉄原太守となった。出自には中国人説もある。

生涯
943年没
死亡地
朝鮮民主主義人民共和国(黄海北道 / 開城特別市)
出生地
朝鮮民主主義人民共和国(開城特別市)
出典
世界地図
朝鮮民主主義人民共和国(黄海北道)

伝記

太祖は、高麗を建てた初代の王(在位918年〜943年)で、名は王建、字は若天という。877年1月31日に生まれ、943年7月4日に没した。父の王隆は松嶽(現在の開城)を拠点に、半島西南の海岸部で貿易によって財をなした豪族であった。王家の来歴には伝説が多く、『高麗史』は、先祖を唐の皇帝の粛宗または宣宗とし、新羅の女性康辰義とのあいだに生まれた王帝建を祖父とする。王帝建は父を探して唐へ渡る途中、黄海で四海龍王の娘と出会って結ばれ、王隆が生まれたため、高麗の人々は王室を龍の一族と信じたという。

出自をめぐっては論争もある。中国の研究者の史長楽は、933年に後唐が送った冊封の詔書にある「長淮の茂族」という句などを根拠に、王建は淮河流域から来た漢人の子孫だと唱えた。これに対し、韓国の研究者のチェ・ワンスは、一族は松嶽一帯の豪商で、中国人商人と直接取引をして富を築いたと見て、王帝建の父も出入りした中国人商人だったと考える方が自然だと述べている。

新羅の力が衰えた9世紀末、各地で反乱が起こった。王建は北方の反乱軍の指導者で後高句麗を建てた弓裔に従い、松嶽城主や鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を率いて活躍した。弓裔は自らを弥勒菩薩と称して権威を高めようとしたが、部下に傲慢で乱暴になったため、918年に洪儒、裵玄慶、申崇謙、卜智謙らが弓裔を追放し、王建を新たな指導者に擁立した。翌919年、王建は松嶽郡に都を移して開州とし、高句麗の後継者を自称して国号を高麗、年号を天授と定めた。

後三国の争いのなか、920年には後百済に圧迫されていた新羅の景明王に書を送って同盟を結んだ。926年に後百済が新羅の都金城を占領し景哀王が自殺したあとも、一進一退の攻防が続いたが、930年から高麗は反撃に転じ、古昌郡で後百済を大敗させた。933年には後唐に朝貢して高麗国王に任じられた。934年、後百済が休戦を申し入れ、王建もその気になったが、老将の庾黔弼だけが反対した。王建はその意見を採って後百済軍を破り、熊津以北を手に入れた。935年に後百済で王位継承をめぐる内紛が起こり、翌年には初代王の甄萱が高麗に投降した。また935年には新羅最後の王の敬順王が高麗に帰順した。後百済の内紛に巧みに介入した王建は、936年、朝鮮半島の統一を成し遂げた。

統一後は国内の基盤固めに努めた。前王朝の新羅の貴族や豪族の多くを家臣に加えて混乱を抑え、地方を府・州・郡・県に分けてそれぞれ治めさせ、中央は三省六官と九寺を置いて中央集権化を進めた。遼に滅ぼされた渤海の遺民の受け入れにも力を尽くした。五代の王朝には相次いで朝貢し、冊封を受けて友好を保ったが、契丹には敵対的で、契丹が渤海を滅ぼしたことに激怒し、送られてきた駱駝50匹を万夫橋につるして飢え死にさせ、使臣30人を島に流して幽閉したという。943年4月には、後代の王が守るべき教えとして「訓要十条」を作り、側近の朴述熙に伝えた。仏教を保護すること、契丹は蛮族なので遠ざけること、西京(平壌)に年100日以上とどまることなどが含まれる。943年5月29日に病が重くなると、遺言を作らせ、臣下のむせび泣く声を聞いて理由を尋ね、「浮生とは昔からすべてそうだ」と笑って答え、しばらくして死んだと『高麗史』は記す。享年は67とされ、陵は顕陵である。高麗が400年以上続く基礎を築いた王として高く評価されている。

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