伝記
エドゥアール・マネは、1832年1月23日にパリで生まれた19世紀フランスの画家である。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となった。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置づけられ、「印象派の父」とも称される。裕福なブルジョワジーの家庭に生まれ、父は息子に法律家となることを望んでいたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父もあきらめ、芸術家の道を歩むことを許した。歴史画家トマ・クチュールに師事したが、伝統的な師の姿勢に飽き足らず、ルーヴル美術館やヨーロッパ各地への旅行で、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を模写した。
1859年以降、サロンへの応募を続け、1861年に、スペインの写実主義的な絵画に影響を受けた『スペインの歌手』で初入選を果たした。理想化された主題や造形を追うアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭と平面的な色面で描く作品は、サロンでしばしば非難されたが、詩人ボードレールのように支持する論者もいた。1863年にナポレオン3世の号令で開かれた落選展に『草上の昼食』を出すと、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑するという主題が、風紀に反するとして非難を浴び、スキャンダルとなった。1865年のサロンに出した『オランピア』は、パリの娼婦を描いたことが明らかだったため、さらに強い非難を受けた。意気消沈した彼はスペインへ旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた。その研究の成果である『笛を吹く少年』は、1866年のサロンで落選したが、作家ゾラの援護を受けた。
パリのバティニョール地区にアトリエと住居を構え、カフェ・ゲルボワに足しげく通うと、周りにはゾラら文筆家や芸術家が集まった。1860年代後半には、モネやルノワールなど若い画家も彼を慕って加わり、バティニョール派と呼ばれた。1870年に普仏戦争が起こると、国民軍に入って首都の防衛戦に加わった。第三共和政の時代になると、若い画家たちはサロンから独立してグループ展を開き、印象派と呼ばれたが、批評家から印象派のリーダー格と見られた彼自身は、サロンでの成功を重んじ、グループ展への参加を拒んだ。それでもモネとの親交は続き、アルジャントゥイユの家をたびたび訪れて、戸外制作などの手法を取り入れた作品も描いた。詩人マラルメとも親しくなった。
1880年ごろから、梅毒による左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しつつ制作を続けた。1882年のサロンに、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月に左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、同月30日に51歳で亡くなった。死後、1890年にモネの働きで『オランピア』がリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にはカイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられたが、保守派からは反対の声も上がった。彼は保守的なブルジョワで、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は本人の意図と裏腹に美術界の革命を起こした。陰影による肉付けや遠近法にとらわれない描写は、浮世絵の影響も受けたと考えられ、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソらにも様々な影響を残した。油彩画は400点余りとされる。
同じ年に亡くなった人物
- オズヴァルト・ヘール (1883年没)
- セル・エペニサ・ザコンバウ (1883年没)
- ルイ=アドルフ・ベルティヨン (1883年没)
- ピエール・オーギュスト・コット (1883年没)
- ローベルト・フォルクマン (1883年没)
同じ地域に関係する人物
- フランソワ・クルーエ (1572年没)
- ルイ・フィギエ (1894年没)
- Jean Antoine Letronne (1848年没)
- ホセ・アントニオ・アギーレ (1960年没)
- マルセリーヌ・ロリダン=イヴェンス (2018年没)