HISTORICAL PERSON · 1883年没

イワン・ツルゲーネフ

ドストエフスキー、トルストイと並ぶ19世紀ロシア文学の文豪。『猟人日記』で農奴制を批判して投獄され、『父と子』では父の世代と子の世代の相克を描いた。長く住んだパリで西欧へのロシア文学紹介に尽くした。

生涯
1883年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / ブージヴァル)
出生地
ロシア連邦(オリョール)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフは、1818年11月9日(ユリウス暦10月28日)に、ロシア中部のオリョールで、地主貴族の家の次男として生まれた。ドストエフスキー、トルストイと並んで、19世紀ロシア文学を代表する文豪とされる。父セルゲイは1812年の祖国戦争に従軍した騎兵大佐で、由緒はあるが没落した家の出であり、母ヴァルヴァラは莫大な財産を受け継いだ裕福なルトヴィノフ家の出であった。兄弟は母に育てられた。母は教養のある権威的な女性で、のちの『ムムー』に登場する女地主のモデルになったともいわれる。父は家にいることが少なく、そのことが少年の心を傷つけたという。この関係は、自伝的な小説『初恋』に描かれている。家庭には外国人の家庭教師がおり、彼はフランス語、ドイツ語、英語に堪能になった。一家は日常でもフランス語を用い、祈りもフランス語で唱えた。1827年に、子供たちの教育のためモスクワへ移った。

15歳でモスクワ大学に入学し、1年後にペテルブルク大学に移って、古典語、ロシア文学、言語学を学んだ。その間に父が腎臓の病で亡くなり、弟のセルゲイも癲癇で世を去った。1838年から1841年までベルリン大学で哲学や古典語を学び、ヘーゲルに触れた。ドイツの社会に感銘を受けて帰国した彼は、ロシアが西欧の長所を取り入れることで進歩できると信じるようになった。1842年に批評家ベリンスキーに会い、以後、親交を続けた。1843年に叙事詩『パラーシャ』を発表し、内務省に職を得たが、翌年に辞めている。同じ1843年、夫も子もあるオペラ歌手ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れして、彼女を追ってパリに移り住んだ。以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続くことになる。

1847年から雑誌に発表された短編が、1852年に『猟人日記』としてまとめられた。貧しい農奴の生活を描いて農奴制を批判した作品で、このために投獄された。この作品は1861年の農奴解放に大きな役割を果たしたとされる。1854年の『ムムー』でも、地主に使われる農奴たちの悲劇と精神の解放を描いた。1850年の中編や『ルーヂン』では、高い理想と教養を持ちながら現実に対して無力な「余計者」を描き、のちには1859年の『貴族の巣』、1860年の『その前夜』、ナロードニキ運動を扱った1877年の『処女地』など、政治社会的な主題の作品を次々に発表して、論争を巻き起こした。理想主義的な父の世代と、唯物論的な子の世代の相克を描いた1862年の『父と子』は、19世紀ロシア小説の最高傑作の一つに挙げられる。ほかに『初恋』(1860年)や、晩年の小品集『散文詩』(1882年)などがある。

ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物のモデルの一人とされ、本人は、革命家ネチャーエフの仲間であるかのように描かれたこと、またドストエフスキーが編集する雑誌に寄せた『幻影』が悪用されたことを不満に思ったといわれる。長く住んだパリでは西欧の作家や芸術家と幅広く交友し、ロシア文学を西欧に紹介する役割も大きく果たした。1883年9月3日(ユリウス暦8月22日)、パリ郊外のブージヴァルで没し、ペテルブルクでは国葬が営まれた。日本ではいち早く二葉亭四迷が翻訳し、国木田独歩や田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えた。

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