HISTORICAL PERSON · 1883年没

アブド・アルカーディル

フランスによるアルジェリア植民地化に対しジハードを宣言し、16年間にわたり抵抗を続けた。アルジェリア民族運動の父とも評価される。

生涯
1883年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
アルジェリア(Guittena)
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

アブド・アルカーディル(アブデルカーデルとも表記される)は、1808年9月6日にアルジェリアのゲトナ村で生まれた、フランスによるアルジェリアの植民地化に抵抗した人物である。アルジェリア民族運動の父とも評価される。祖父、父の代からのスーフィー教団の指導者の家に生まれた。1830年にフランスがオスマン帝国からアルジェリアを獲得すると、この地は積極的な植民が繰り返され、土地の収奪や先住民の民族性の破壊、イスラム信仰の弾圧、参政権の拒否が行われた。土地所有制度を破壊されたアルジェリアの諸民族は強く反発し、各地でゲリラ戦を含む抵抗活動が起こった。アルカーディルの闘争は、こうした時代背景に支えられていた。

1830年にフランスの侵略が始まると、彼はフランスに対するジハードを宣言し、16年間にわたる抵抗を続けた。1831年5月にアルジェ東方で、偵察中の外人部隊兵27名を全員戦死させた戦いで名を知られるようになった。1832年の秋にはシャリーフの血を引く者として西側の部族に認められ、高齢の父が辞退したこともあって、24歳でアミールの地位に就いた。軽快機敏な北アフリカの騎兵を率いて、ヨーロッパでの戦いに向いた編成のフランス外人部隊を打ち負かすことがしばしばあった。1834年にフランスの政治方針が変わると、将軍との間に一時的な和平が成立し、彼は地方長官に任命されて、火薬や武器を購入する権利などを認められた。西部アルジェリアの全部族の指揮権を得た彼は、ヨーロッパ人技術者を招いて武器弾薬を独自に生産し、1835年には8000の騎兵と4000の歩兵で蜂起して、ラ・マクラ峡谷でフランス軍に500名の損害を与えた。1837年にはビュジョー将軍とタフネ条約を結び、フランスは彼の西部における主権を認めたが、この条約は履行されず、彼は軍を立て直す時間として活用した。

1838年には5000の歩兵と1000の騎兵を再建し、一時はアルジェリアの三分の二を制圧して、軍事と財政の近代化も図った。しかしビュジョーが総督に就任するとフランス軍は大幅に増強され、1840年には6万、1847年には10万7000にまで膨らんで、戦力差は拡大した。1842年にモロッコに駆逐され、翌年に戻って蜂起したが、またも敗北した。1847年12月に外人部隊と交戦して壊滅的な損害を受け、各部族の離反も続いたため、降伏を決意した。サハラ砂漠に入ってフランス正規軍に投降し、16年に及ぶ闘争に幕を閉じた。

降伏の当時の総督は、捕虜にしないと約束していたが、1848年の二月革命で成立した共和政権はその約束を反故にし、彼をトゥーロンの砦、ポー城、アンボワーズ城に幽閉した。5年に及ぶ獄中生活で、妻と兄弟、二人の子供や多数の支持者を病で失った。ヴィクトル・ユーゴーらから釈放を求める声が上がる中、1852年10月16日、ナポレオン3世は「アラブ王国」構想のために彼を釈放した。彼は「アルジェリアを混乱させない」と誓約して、年10万フランの年金を与えられ、生涯その誓いを守り通した。釈放後はブルサを経て、1855年にダマスカスに移り住み、神学や哲学に専念した。1860年のシリア暴動では、キリスト教徒の保護に乗り出し、邸宅を開放して匿った。フランスは年金を15万フランに増額してレジオン・ドヌール勲章を与え、各国からも勲章や贈り物が寄せられた。1883年5月26日に死去した。

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