HISTORICAL PERSON · 1882年没

レオン・ガンベッタ

19世紀フランスの政治家。第二帝政への反対で名を上げ、普仏戦争ではナポレオン3世の廃位と共和国政府の樹立を宣言し、気球でパリを脱出して抗戦した。1879年に代議院議長、1881年に首相となった。

生涯
1882年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ヴィル=ダヴレー)
出生地
フランス共和国(カオール)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

レオン・ガンベッタは、1838年4月2日にフランス南西部のカオールで生まれ、1882年12月31日に没した19世紀フランスの政治家である。第三共和政の定着に大きな役割を果たした人物とされる。

父はジェノヴァ出身の家系の食料雑貨商、母はフランス人のマサビーという名で、質素な地方の家庭に育った。15歳のとき事故で左目を失明した。カオールの高等学校で頭角を現し、1857年に法学を学ぶためパリに出て、1859年に法廷弁護士となった。法学の勉強中から第二帝政に反対することで知られたが、名の知れた人物ではなかった。1868年11月、ジャーナリストの担当弁護士に選ばれたことで一躍有名になる。この裁判では、クーデターそのものを攻撃した。1869年5月の選挙では、マルセイユの選挙区でティエールらを破って立法院議員に当選し、就任してすぐ議会で帝政批判を展開した。急進的な改革を掲げる「ベルヴィル綱領」を支持して当選している。

1870年の普仏戦争では、最初は開戦に反対したが、のちにフランスは開戦を迫られたと納得した。セダンの敗北の報せがパリに届くと強硬策を主張し、立法院でナポレオン3世の廃位を宣言して、パリ市庁舎で共和国政府の樹立を宣言した。成立した国防政府で内務大臣を務め、国土の防衛に尽力した。10月7日、包囲されたパリを気球で脱出し、トゥールに移って地方での抵抗を組織した。12月初めにオルレアンが陥落するとボルドーに移り、翌年1月末にパリが降伏すると、休戦に反対した彼もビスマルクへの降伏を受け入れざるをえなかった。その後、普仏戦争の講和条約でストラスブールがプロイセンに割譲されることに激怒して議員を辞任し、スペインに引退した。同年6月に帰国し、11月には雑誌『ラ・レピュブリク・フランセーズ』を創設し、すぐに影響力の大きい雑誌となった。各地を回って演説し、共和国の未来構想を訴えた。

1873年にティエールが失脚して、王党派のマクマオンが大統領となると、盟友に中道路線をとるよう説得して、1875年の憲法的法律を可決させた。1877年5月、教権主義を敵として批判する演説をし、マクマオンが議会クーデターを起こそうとするとこれに抵抗する運動を組織した。マクマオンは辞任に追い込まれ、ガンベッタは大統領選への出馬を辞退してグレヴィを支持し、1879年1月に代議院議長に就任した。1881年11月、グレヴィ大統領は彼を首相に任命したが、独裁を企んでいると疑われて政敵の攻撃を受け、1882年1月に内閣は総辞職した。

1882年12月31日、セーヴル近くの自宅で、リボルバーの暴発により死亡した。自殺説もあったが、事故であったことは確実とされる。1883年1月6日に埋葬され、1905年にはボルドーに記念碑が設置された。生涯独身で、1871年以来の愛人レオニーがいたが、キャリアに傷がつくことを恐れて彼女は結婚を拒んだという。功績は、普仏戦争中の抵抗運動でフランスの自信を維持したこと、急進共和派を説得して穏健な共和政を受け入れさせたこと、王政復活を阻止したことの三点が挙げられる。自由民権運動期の日本では、馬場辰猪が「東洋のガンベッタ」と呼ばれた。

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