伝記
シメオン1世は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位893年〜927年)である。ボリス1世の三男(あるいは次男)として864年頃に生まれ、バルカン半島の大半を占める帝国の最大版図を築いた。一時期は東ローマ帝国を圧倒し、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称したため、シメオン大帝とも呼ばれる。
父ボリスは864年、東ローマとの戦いに劣勢となって和睦の条件にキリスト教の受容を求められ、貴族の反乱を鎮めたのち、870年に東方のビザンティン教会に属することを決めた。シメオンはコンスタンティノープルに建てられたブルガリア人のための学校に留学し、デモステネスの修辞法やアリストテレス、三角法などを学んだ。父は彼をゆくゆくは高位の聖職者にしようと期待していたようで、帰国後はギリシア語からスラブ語への典礼書の翻訳作業に従事していたと考えられる。889年にボリスが退位して長男ヴラディミルに王位を譲ると、新王は貴族らと結託して反キリスト運動を起こした。隠居していたボリスは893年、元臣下やシメオンの助けでこれを鎮圧し、貴族会議に三男の即位を承認させた。この会議では、首都のプリスカからプレスラフへの遷都と、宗教用語・行政用語のスラブ語への変更も決まった。
修道士から急に即位したシメオンだが、その政策は、父の進めた東ローマとの協和路線とは逆の敵対路線に向かった。894年、コンスタンティノープルでブルガリア商人が締め出されて税も引き上げられると、抗議の書簡が拒絶されたため西トラキアに進撃して東ローマ軍に大勝した。東ローマはマジャール人を動かしてブルガリアを攻撃させたが、シメオンはペチェネグ人と交渉してマジャール人を挟撃し、領地を略奪し返した。896年、ブルガロフェゴンで東ローマ軍を待ち伏せて壊滅的な被害を与えると、和議がまとまり、捕虜12万人の返還と引き換えに東ローマが毎年貢納金を払うことなどが決まった。
912年にレオーン6世が没して弟アレクサンドロスが貢納金の支払いを止めると、翌913年、シメオンは軍を進めてコンスタンティノープルの城壁前に野営した。堅固な守りを攻め落とせなかったが、交渉のために市内へ迎えられ、総主教ニコラオスが自らの頭飾りを彼の頭に載せて「皇帝」と宣言する、ある種の戴冠式が行われた。この儀式は共治帝としての戴冠なのか、ブルガリアの皇帝としての戴冠なのか、当時から解釈が分かれた。シメオンが帰国すると婚約と戴冠は無効とされ、ブルガリア軍は917年にアヘルス川近郊で東ローマ軍を奇襲して破るなど、毎年のように遠征を重ねた。914年にはアドリアノープルを占領し、918年には遠くコリント湾まで南下し、923年にはアドリアノープルを再び奪った。924年には多数の随員に「バシレウス」と歓呼させながら、東ローマ皇帝ロマノスとの会見に臨んでいる。925年頃には「ローマ人とブルガリア人の皇帝」を名乗り、926年にはブルガリア大主教を総主教に昇格させた。同年、クロアティア王トミスラフの軍に主力部隊を全滅させられる痛手を負った。
927年5月27日、首都プレスラフで没した。跡を継いだ次男ペタルは東ローマに従属する方針をとり、連年の軍事行動で消耗した国は衰退に向かったが、外敵の侵略が少なかったため、プレスラフを中心にスラブ・キリスト教文化は大いに発展した。
同じ年に亡くなった人物
- Stephen II of Constantinople (927年)
- アクフレ (アキテーヌ公) (927年)
- Theophylact I (927年没)
同じ地域に関係する人物
- クルム (ブルガリア皇帝) (814年没)
- ニケフォロス1世 (811年没)
- ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャ (1790年没)
- ボリス1世 (907年没)
- ガヴリル・ラドミール (1015年没)