HISTORICAL PERSON · 923年没

アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェント

イタリア王グイード・ダ・スポレートの妃。息子ランベルトの摂政として教皇選挙に介入し、前教皇フォルモススの遺体裁判を主導した。

生涯
923年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェントは、9世紀末のイタリアで、皇帝の妃であり、のちに幼い皇帝の母として摂政を務めた女性である。860年頃の生まれとされ、923年8月27日に没した。イタリア王・皇帝グイード・ダ・スポレートの妃で、ランベルトの母にあたる。

ベネヴェント公アデルキとアデルトルーデの娘で、スポレート公・カメリーノ侯であったグイードと結婚した。結婚の時期は、875年頃ともいわれ、880年代の初めともいわれる。グイードは889年にベレンガーリオを破ってイタリア王となり、891年には皇帝として戴冠したため、アジェルトゥルデは皇后となった。しかしグイードの治世は短く、894年に彼が没すると、アジェルトゥルデは寡婦となった。息子ランベルトはまだ幼かったので、彼女が摂政となった。

同じ894年、アジェルトゥルデは14歳のランベルトを連れてローマへ赴き、教皇フォルモススにランベルトの皇帝位を承認してもらおうとした。ところがフォルモススは、カロリング家のケルンテンのアルヌルフが皇帝になることを支持していた。896年、アルヌルフが軍を率いてローマに入り、ランベルトに対抗して戴冠すると、アジェルトゥルデと息子はスポレートに身を隠した。だがこの敗北は一時的なものだった。アルヌルフを戴冠させた教皇フォルモススはわずか1か月ほどで世を去り、アルヌルフ自身もまもなく麻痺の症状に襲われたのである。

権力を握る好機を得たアジェルトゥルデは、すぐにローマで自らの権威を確立しようとした。ボニファティウス6世のごく短い2週間の在位ののち、彼女は自分の推す人物を教皇ステファヌス6世に選ばせた。彼女とランベルトの求めにより、フォルモススの遺体は墓から掘り出されて裁判にかけられた。ある司教座から別の司教座へ移ったという罪状で有罪とされ、遺体はテヴェレ川に投げ込まれた。これが死体裁判と呼ばれる出来事である。この間にランベルトは、スポレートのランベルト2世となった。ただ、ランベルトが称号を取り戻したのは897年とも伝えられる。

898年に息子ランベルトが亡くなると、アジェルトゥルデは政治から身を引き、カメリーノの修道院に入り、のちにはサルソマッジョーレの修道院に移った。また、グイードの親族であるスポレートのグイード4世が殺害されたあと、彼女はベネヴェントへ赴き、兄弟のラデルキスを公として復位させたとも伝えられる。

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