伝記
オロンテス2世は、紀元前4世紀に生きたペルシアの貴族である。ダレイオス3世のもとでアルメニアの総督を務めた人物と考えられており、紀元前336年にダレイオスが王位についたとき、その後を継いでこの地位についた可能性もあるとされる。没年は紀元前330年とされることがあるが、その死の時期をめぐっては議論がある。
オロンテスという名は、古代ペルシア語のアルヴァンタをギリシア語に写したものである。この語は中期・新期のペルシア語でもアルヴァンドとして受け継がれた。アヴェスター語の「素早い、活力のある、勇敢な」を意味する語に関連し、「駿馬を持つ」を意味する名前アウルヴァト・アスパの短縮形かもしれないという。
オロンテスの事績で確かなのは、紀元前331年のガウガメラの戦いである。アッリアノスは、この戦いでアルメニア軍を率いた指揮官としてオロンテスと、ミトラウステスという人物の二人を挙げている。この一節の解釈には争いがあり、ミトラウステスが歩兵を指揮したとする見方、アルメニアの騎兵が二つの部隊に分かれていたとする見方、さらにはアルメニアが二つに分かれ、二人の総督が治めていたとする見方まである。オロンテスはペルシア軍の右翼で、歩兵4万と騎兵7千を率いて戦い、そこで戦死したとされる。オロンテスの息子ミトレネスは、紀元前334年のサルディス陥落の後、リュディアの総督の身でアレクサンドロス大王の側についていた。ガウガメラの戦いでは大王側で戦い、戦いの後、大王によってアルメニアの総督に任じられたという。
ただし、オロンテスがガウガメラで死んだという説には異論がある。ディオドロスとポリュアイノスは、ディアドコイ(後継者)たちの第二次戦争の時代にアルメニアの総督だったオロンテスという人物に言及しており、ディオドロスは、この人物がペウケスタスの友人だったと付け加えている。バーン、アンソン、ヘッケルらは、この総督をガウガメラでダレイオスのために戦ったオロンテスと同一人物と見ている。アンソンとヘッケルは、ミトレネスがオロンテスからアルメニアを奪おうとして失敗し、死んだのかもしれないと述べる。ヘッケルは、マケドニア軍が迂回したアルメニアはおそらく大王の帝国に入らなかったと考える。これに対してアンソンは、ガウガメラの後のどこかの時点でオロンテスが大王に服属し、大王が彼を大アルメニアの統治者としたと見る。ハモンドは、紀元前331年の末にミトレネスがバビロンから送られたとき、アルメニアはすでに服属していて、ミトレネスは新しい体制のもとで総督となり、紀元前323年にペルディッカスが総督領の一部を従来の総督に残したときにも留任し、紀元前317年までにオロンテスに交代していたと解釈した。
さらに、コンマゲネのアンティオコス1世の祖先を記したネムルト山の碑文には、アロアンダスの子という名前の一部が欠けた祖先が現れる。この人物は、碑文に挙がるアロアンダス(オロンテス)の名を持つ祖先の2人目と推定される。デルナーとヤングは、その子の名の最初に残る文字をデルタと読み、名が「ダネス」で終わると考えた。ブレイデルもこの読みを支持している。ベロッホやブレイデルは、この人物をガウガメラの指揮官のオロンテスと同一視した。一方で、デルナーは、アロアンダスやオロンテスという名を持つ者とアルメニアとの結びつきや、アルメニア軍の指導者という立場が、親族と見なす根拠として十分かどうか疑った。