伝記
アナスタシウス3世は、第120代のローマ教皇である。この名の教皇は4人おり、彼は3人目にあたる。生まれはローマで、生年ははっきりしない。865年3月14日の生まれとする説もある。父については、ローマの貴族ルキアヌスとされることがあるが、先代の教皇セルギウス3世の庶子だったとする説もあり、確かなことは分からない。
先代セルギウス3世が911年4月に没したため、その跡を継いで教皇に選ばれた。就任の時期は911年4月とも6月ともいわれる。先代の直後に選ばれたのは、道徳的な資質と徳の高い振る舞いが求められていたからだとされる。しかし誠実さにもかかわらず、その弱さゆえに周囲の圧力を受け、パヴィアの司教に多くの特権を与えたともいう。
この時期のローマと教皇庁は、トゥスクルム伯テオフュラクトゥス1世とその妻テオドラの支配下にあった。二人は娘マロツィアとともにこの教皇の選出を支持したとされ、彼は事実上、この一家の操り人形だったとも評される。教皇の在位は、のちに「ポルノクラシー」と呼ばれる時代の初期に当たり、彼はその時代の教皇としては2人目にあたる。彼はローマの司教であると同時に、教皇領の支配者でもあった。在位中のできごとしては、ロロ率いる北方の人々が、のちのノルマンディーの地に定着したことが挙げられる。この間に、ロロ率いるノルマン人たちへのキリスト教の布教も進められた。西フランク王単純王シャルルは、ロロをその地の正統な支配者と認め、娘ジゼルを嫁がせた。ロロはキリスト教に改宗し、ロベールの名で洗礼を受け、その領地は北の人々の公国と呼ばれ、ノルマンディーの名の由来になったという。一方、南ではサラセン人が、ガリリアーノ川のほとりに拠点を築き、教皇庁への脅威が再び高まった。
教皇自身の事績は、ほとんど記録に残っていない。このノルマンディーの件のほかには、在位中に歴史上重要なできごとはなかったとされる。没した時期は913年の6月とも8月とも伝えられる。テオフュラクトゥスの命による殺害だったともいわれ、毒を盛られたのかもしれないとも伝えられるが、いずれも推測にとどまる。遺体は聖ペトロ大聖堂に葬られた。在位は2年2か月ほどの短いものだった。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドロス (東ローマ皇帝) (913年没)
同じ地域に関係する人物
- エリュー・ヴェッダー (1923年没)
- アンナ・マニャーニ (1973年没)
- ジョルジョ・デ・キリコ (1978年没)
- ピエトロ・メンネア (2013年没)
- インノケンティウス8世 (ローマ教皇) (1492年没)