伝記
リシルド・ド・プロヴァンスは、リシルド・ダルデンヌとも呼ばれ、845年頃に生まれ910年に没した西フランク王シャルル2世(禿頭王)の2番目の妃である。メスの生まれとされる。父はアルデンヌ伯ビヴィンで、兄にのちのプロヴァンス王ボソがいた。ロタリンギア王ロタール2世の王妃テウトベルガは母方の伯母にあたり、この血縁が彼女の運命を大きく左右することになる。
869年、シャルル禿頭王は、すでに別居していた最初の妻エルマントルド・ドルレアンと死別した。王は翌870年1月22日にエクス=ラ=シャペルでリシルドと結婚する。この結婚は王に政略上の利益をもたらすものだった。ロタール2世の未亡人テウトベルガの姪を妃に迎えることで、王が掌握したロタリンギア王国の支配を、リシルドの有力な一族とテウトベルガとのつながりを通じてより強固にできたからである。のちに皇帝位にも就いた夫のもとで、リシルドは西フランクの王妃から皇后となった。
夫妻の間には5人の子が生まれた。長女ロティルドは871年頃に生まれ、最初はブールジュのユーグと、のちにメーヌ伯ロジェと結婚した。夫の死後は修道院に入り、シェルの修道院で女子修道院長になったとされる。ほかに、ドロゴとピピン、875年に洗礼を受けた直後に没した男児、そして876年に生まれ877年に没して、サン=ドニに葬られたシャルルがいた。成人まで生き延びたのは長女ただ1人だった。
リシルドは政治の場でも働いた。夫が戦争に出ているあいだは王国の統治を担い、877年にシャルルが没したのちも、一時的に国政を預かったとされる。879年には継息子のルイ2世が若くして亡くなったが、その息子たちはまだ幼く、自ら統治できる年齢ではなかった。リシルドは兄のボソを西フランク王に就けようと画策する。しかし貴族たちはこれに反発し、リシルドと兄が近親相姦の関係にあると非難した。そして前王妃である彼女の権威に服することを拒んだ。リシルドはその後、ボソがプロヴァンス王となるのを支援した。
義理の孫にあたるルイ3世が882年に、カルロマン2世が884年に相次いで亡くなると、リシルドは再び王国の実権を握ろうとした。しかし当時の王国は混乱し、ノルマン人の脅威にもさらされていた。有力者たちは彼女を退かせ、プロヴァンスへ追放した。のちには甥のルイ盲目王の領地に移ったともいわれる。910年6月2日、シャロン=シュル=ソーヌで没したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ハーコン・グリョートガルズソン (910年)
- イスハーク・イブン・フナイン (910年)
- Muncimir of Croatia (910年没)
- アルフォンソ3世 (アストゥリアス王) (910年没)
- インゴールヴル・アルナルソン (910年)
同じ地域に関係する人物
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- ブリュノ・ロジック (1998年没)
- ヨハン2世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=フェルデンツ公) (1635年没)
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