伝記
ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤーは、1814年11月25日にドイツのハイルブロンで生まれた物理学者である。父は薬局の経営者であった。ギムナジウムでは古典語の教育を受けたが、この分野に関心がなかったためか成績は悪かった。1832年にチュービンゲン大学に入学して医学を学び、科学実験が好きだったため、化学の講義も受け、個人的な実験も行った。大学時代には禁止されていた学生組合をつくって大学当局と対立し、停学処分を受けた。これに対して6日間のハンガーストライキで抗議したが、停学の期間には各地の病院を訪ねて回った。この経験から、もっと広い世間を見たいと思うようになり、オランダの植民地で軍医となることを決意し、1838年に大学へ復学して博士号を得た。
1840年、オランダ船の船医として東インド諸島への航海に同行した。東ジャワで船員から瀉血のために血液を採ると、その静脈血が寒い地域のものより鮮やかな赤色をしていることに気づいた。彼は、熱帯では体温を維持するのに必要な熱量が少なく、それだけ必要な酸素も少ないためだと考えた。さらに、酸素の消費は体温の維持だけでなく運動にもよるのだから、熱と運動には何らかのかかわりがあるのではないかと推論を進めた。航海中は、船が港に着いても降りず、ひとりで思考をめぐらしていた。ハイルブロンに戻ると、論文の執筆に取り組んだ。
1841年6月、論文「力の量的・質的規定について」を雑誌「物理学・化学年報」の編集者ポッゲンドルフに送ったが、掲載されなかった。友人たちの評価もかんばしくなかった。1842年に内容を大幅に改めて、リービッヒが編集長の「化学・薬学年報」に提出し、この論文は受理されて刊行されたが、高い評価は得られなかった。この論文で、熱と仕事が相互に変換可能であること、すなわちエネルギー保存の法則を発表し、初めて熱の仕事当量を求めた。1845年に同じ雑誌へ論文を出そうとして拒否されたため、以後の論文はすべて自費出版とした。
1848年8月、娘2人を百日咳で相次いで失い、三月革命に義勇軍として参加していた兄の命も危うくなった。兄を捜しに向かう途中で自らが捕まり、スパイの容疑で銃殺される危機にも陥った。そのころ、ジュールが熱の仕事当量を実験で求めるようになっていた。マイヤーは自分が最初に求めたと主張したが、世間には認められず、批判も受けた。こうして精神が病み、1850年5月28日に自宅の窓から飛び降りた。一命は取り留めたが、右足を骨折し、生涯、足を引きずって歩くことになった。研究者としての活動も、ほぼこの時に終わった。
退院後は葡萄の栽培をして暮らしたが、その間に学界での評価は上がっていった。1854年にヘルムホルツは講演で、エネルギー保存の法則を最初に発表したのはマイヤーだと語った。ところが1858年にリービッヒが、マイヤーは精神病院で亡くなったと誤った情報を流し、死亡説が広まった。1862年には、ティンダルがロンドンの王立研究所で講演してマイヤーの先取権を主張し、その名が一段と広く知られるようになった。1867年にヴュルテンベルク王冠勲章を授与されて、一代貴族となり、「フォン」を名乗った。1871年に王立協会からコプリ・メダルを贈られ、7年後の1878年3月20日、ハイルブロンで64歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- フランソワ・ブノワ (1878年没)
- テオドロス・ヴリザキス (1878年没)
- アーサー・アダムズ (1878年没)
- ロバート・スターリング (1878年没)
- ウジェーヌ・ベルグラン (1878年没)
同じ地域に関係する人物
- ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼン (1676年没)
- ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク (1817年没)
- ハンス・ゲオルク・ガダマー (2002年没)
- カール1世 (ヴュルテンベルク王) (1891年没)
- ハインリヒ・リッケルト (1936年没)