伝記
ジョセフ・ヘンリーは、1797年12月17日にニューヨーク州オールバニで、スコットランド系の両親のもとに生まれたアメリカの物理学者である。家庭は貧しく、幼くして父を亡くし、祖母とともにギャルウェイに住んで小学校に通った。卒業後は雑貨店で働き、13歳のときに時計屋の見習いとなった。若いころは演劇が好きで、俳優になることを夢見ていたという。16歳のときに科学書によって科学への興味に目覚め、1819年にオールバニアカデミーに入学し、無料で授業を受けた。生活費のために家庭教師などをして稼ぎ、医学を志したが、1824年には州道の建設現場で測量の技師見習いに任命され、その後は土木工学や機械工学を仕事とした。
アカデミーで教授たちが科学を教えるのを助けるほど優れた才能を示したため、1826年に校長から数学と自然哲学の教授に任命された。地磁気への興味から磁気一般の実験を行い、1829年にはウィリアム・スタージャンの電磁石を改良した。絹で絶縁した銅線を鉄芯に密に巻いて、強力な電磁石をつくったのである。絶縁に使った絹は、妻のスカートを裂いて作ったとされる。1831年には巻数400回の電磁石をイェール大学のために製作し、338キログラムの物体を持ち上げ、同年にはさらに1トンの物体を持ち上げるまでになった。また、複数の電池を使う場合には長い一本の巻線がよいことを見いだし、これは電信の実現に一役買った。
1830年にファラデーより先に電磁誘導を発見していたが、発表が遅れたため、発見の功はファラデーに譲ることとなった。1831年には電磁気を動力源として動く世界初の機械を作り、電動機の元となったが、棒の先の電磁石が前後に振動する形であった。この実験から1832年に自己誘導を発見した。多くの発明をしたが一切特許化せず、成果をもとに他の人間が製品化することを援助した。1835年に発明した継電器は、モールスの電信機の発明の基礎となった。1845年から47年には、天文学者スティーブン・アレクサンダーとともに太陽黒点を観察し、黒点が周囲より温度が低いことを明らかにした。
1846年にスミソニアン協会が設立されると、ファラデーらの推挙によって初代の理事長に選ばれ、1878年まで務めた。気象観測にも早くから着目し、各地の有志に標準の観測機器や手順を提供して観測網を築き、電報網を通じた即時的な気象情報の収集も進めた。1857年5月には、気象学者エスピーの協力を得て、東部沿岸各地の天候と予報を新聞に初めて発表した。この試みは南北戦争と、1865年の協会本部の火災で終わった。一方、気球家タデウス・ローを支援し、北軍気球司令部が設けられる際には、陸軍長官への推薦状を書いて後押しした。
1832年にはプリンストン大学の自然哲学の教授となり、1852年からは灯台委員会の委員を務めて、1871年には軍人以外で唯一の委員長となった。1868年には全米科学アカデミーの第2代総裁に就き、亡くなるまで務めた。晩年には、多くの科学者や発明家が助言を求めて集まった。グラハム・ベルが1875年に電話の技法を説明すると、「偉大な発明の萌芽」があると確信し、完成まで公表しないよう助言した。1878年5月13日にワシントンD.C.で死去し、電磁誘導係数の単位は、1893年に彼にちなんでヘンリーと名づけられた。
同じ年に亡くなった人物
- バルテルミー・シャルル・ジョゼフ・デュモルティエ (1878年没)
- ロバート・スターリング (1878年没)
- アントワーヌ・セザール・ベクレル (1878年没)
- イェゴール・ゾロタレフ (1878年没)
- ムハンマド・ビン・サーニー (1878年没)
同じ地域に関係する人物
- ハーマン・ホレリス (1929年没)
- ジェームズ・ホーバン (1831年没)
- サイモン・ニューカム (1909年没)
- ジョン・ロス (チェロキー) (1866年没)
- エルブリッジ・ゲリー (1814年没)