伝記
テオドラは、東ローマ(ビザンツ)皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの2番目の妃となった皇后である。946年頃の生まれとされ、没年は不明だが、971年より後まで生きた。父は皇帝コンスタンティノス7世、母はヘレナ・レカペネである。母方の祖父母はロマノス1世レカペノスとその妃テオドラにあたる。
959年11月9日に父コンスタンティノス7世が没すると、兄のロマノス2世が帝位を継いだ。ロマノス2世の妃テオファノは、夫を説得して、5人の姉妹をすべて修道院に送らせたとされる。テオドラのほか、ゾエ、アガテ、テオファノ、アンナの姉妹は、はじめカニクレイオン修道院に置かれた。のちに姉妹は分けられ、テオドラとゾエ、テオファノはアンティオコス修道院へ、アガテとアンナはミュレライオン修道院へ送られた。ミュレライオンは母方の祖父が建てた修道院である。こうした出来事は、961年で終わる年代記『テオファネス続編』に記されている。
姉妹が修道生活を送っているあいだに、帝位をめぐる状況は大きく動いた。ロマノス2世は963年3月15日に没し、まだ幼い息子のバシレイオス2世とコンスタンティノス8世が共同の皇帝として後を継いだ。母テオファノは摂政を務めたのち、勝利した将軍ニケフォロス2世と再婚した。ニケフォロスは上位の皇帝として即位したが、テオファノと、ニケフォロスの甥であるヨハネス・ツィミスケスは、969年12月10日から11日にかけての夜にその暗殺を実行した。
ヨハネスがニケフォロスに代わって上位の皇帝となり、テオファノはプリンキポス島に流された。ヨハネスは先にマリア・スクレライナと結婚しており、これによって将軍バルダス・スクレロスとの同盟を固めていた。しかし、帝国のそれ以外の勢力の忠誠は、まだ確かなものではなかった。そこでヨハネスは、ミュレライオン修道院からテオドラを解放して結婚した。結婚の時期は、助祭レオンによれば971年11月とされる。この結婚で娘のテオファノ・クルクアスが生まれたとする説がある。
ヨハネス1世は976年1月10日に没した。テオドラがそのとき生きていたかどうかは、中世の記録には残されておらず、その最期はわかっていない。
同じ年に亡くなった人物
- サービト・イブン・クッラ (901年没)
- ハロガランのオフゼア (901年(推定))
- Irene Lekapene (901年(推定))
- アデライード・ド・パリ (901年没)
- Antony II of Constantinople (901年)
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