HISTORICAL PERSON · 1877年没

アドルフ・ティエール

フランスの政治家・歴史家。『フランス革命史』で名声を得、七月王政期に首相を2度務めた。のち第三共和政の初代大統領となった。

生涯
1877年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / サン=ジェルマン=アン=レー)
出生地
フランス共和国(マルセイユ)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

ルイ・アドルフ・ティエールは、1797年4月にマルセイユ近郊で生まれたフランスの政治家であり、歴史家である。首相を2度務め、第三共和政の初代大統領となった。マルセイユのリセで学び、エクスの法学部に進んだが、法学にはあまり興味を持てず、文学に関心を寄せた。ヴォーヴナルグ侯爵に関する論説を書いてエクスで賞金を得て、友人ミニェを得たのもこのころである。エクスでの暮らしに満足できず、友人への手紙に「ここには財産も地位も、それを得る望みもない」と書いて、パリに出て作家として身を立てる決心をした。1821年秋にパリに出ると、すぐに新聞への寄稿を始めて、自由主義者として名が知られるようになった。さらに『フランス革命史』(1823年から1827年、10巻)を著して、一躍国民から名声を得た。

生涯を文人として過ごすかに思われたが、1829年8月にジュール・ド・ポリニャックが首相に就任すると情勢が変わった。1830年初めには仲間とともに新聞を創刊して政府批判を始め、七月革命の実質的な中心人物の一人と評されるほど活躍した。七月王政期には国王ルイ・フィリップを支持する急進派の一員となり、エクスから代議院議員に選ばれ、財務省の官僚を務めた。1832年の六月暴動の後は内務大臣に任命され、1834年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1836年に最初の首相を務め、辞任した時点では外務大臣を兼任していた。ギゾーやブロイ公とは敵対した。1838年に野党活動を始め、1840年3月に首相兼外務大臣に返り咲いたが、反イギリス、反オスマン帝国の政策でルイ・フィリップの説得に失敗し、同年10月29日に辞任した。以後は『執政政府と第一帝政の歴史』の執筆に専念して、1845年に第1巻を出版した。

1848年に二月革命が勃発すると、国王に呼び出されたものの事態の収拾に失敗して辞任した。第二共和政では保守共和派の一員になり、以後死去まで立場を変えなかったが、大統領選挙でルイ=ナポレオン・ボナパルトに票を投じたことは後に批判の的となった。ナポレオン3世がクーデターで権力を握ると逮捕されて、フランスから追放された。翌年の夏に帰国を許されたが、しばらくは執筆に専念した。再び政治に関わったのは、1863年にパリから立法院議員に選ばれたときである。帝政の外交政策を積極的に批判する一方、普仏戦争の開戦世論の形成に一役買ったともいう。

国防政府では当初官職につかなかったが、ビスマルクとの交渉に関わった。休戦協定の後の選挙で20以上の選挙区で当選し、国民議会により行政長官に選ばれると、ドイツとの講和交渉に臨んだ。アルザス・ロレーヌの2州をドイツに割譲することになったが、議会に講和の必要性を説いて、講和案は4倍以上の票差で可決された。講和への不満から成立したパリ・コミューンを鎮圧し、1871年8月30日に正式な大統領に当選した。しかし1872年1月に一度辞任を申し出て拒否された時点で、ほぼ全ての党派に嫌われていた。1873年に大統領の権限を削る議案が可決され、5月24日に大統領を辞任した。その後も議員を続け、1877年9月3日、サン=ジェルマン=アン=レーで病死した。

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