伝記
西郷隆盛は、文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名)の長男として生まれた幕末から明治初期の政治家、軍人である。家格は御小姓与で、下から2番目の下級藩士の家であった。先祖は肥後国の菊池氏の庶家とされ、元禄年間に薩摩藩士になったと伝わる。弟には、戊辰戦争で戦死した吉二郎、のちに明治政府の重鎮となる従道、西南戦争で戦死した小兵衛がおり、大山巌は従弟にあたる。天保10年(1839年)、仲間と郷中の喧嘩を仲裁した際、刀で右腕の内側の神経を切られ、三日間高熱に浮かされた。一命は取り留めたが刀を握れなくなり、武術を諦めて学問で身を立てようと志したという。
弘化元年(1844年)に郡方書役助となり、嘉永3年(1850年)には高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負が切腹し、父から切腹の様子を聞いて血衣を見せられた。これ以後、世子の島津斉彬が藩主になることを願うようになった。同じころ、大久保正助(利通)、吉井幸輔(友実)らと『近思録』を輪読する会をつくっている。嘉永4年に斉彬が藩主になり、嘉永5年に結婚したが、同じ年に祖父、父、母が相次いで死去し、一人で一家を支えることになった。安政元年(1854年)、斉彬の江戸参勤に中御小姓として従い、御庭方役となって、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受け、藤田東湖にも会った。斉彬の密書を持って各地の有力者のもとへ赴き、橋本左内らとともに一橋慶喜の擁立に奔走するなど、斉彬の手足となって活動した。
安政5年(1858年)、京都で斉彬の急死を知らされ、殉死しようとしたが、僧の月照らに説得されて遺志を継ぐことを決意した。しかし大老井伊直弼による弾圧が強まり、月照を伴って鹿児島へ逃れたものの、藩は月照らの斬り捨てを企てた。前途を悲観した西郷は、同年11月16日の夜半に竜ヶ水沖で月照とともに入水し、月照は死亡したが、西郷は蘇生した。藩は彼を死んだものとして扱い、のちに奄美大島に潜居させた。島で愛加那を島妻とし、菊次郎が生まれたが、斉彬の死後に藩の実権を握った島津久光の召還を受けて、文久2年(1862年)に鹿児島に戻った。上京をめぐって久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪となったが、家老の小松清廉や大久保利通の後押しで復帰した。
元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功して、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らと降伏交渉にあたり、幕府側の降伏条件を受け入れて総攻撃を中止した。これが江戸無血開城である。一度は薩摩へ帰ったが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職し、陸軍大将・近衛都督を兼ねた。明治6年(1873年)、朝鮮との国交回復問題で自ら遣韓使節として赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立して、政変のすえ江藤新平、板垣退助らとともに下野した。鹿児島に戻って私学校で教育に専念したが、士族の反乱が続く中、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となり、敗れて9月24日に城山で自刃した。死後十数年を経て名誉を回復され、贈正三位となり、継嗣の寅太郎が侯爵となった。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ (1877年没)
- エッリーコ・ペトレッラ (1877年没)
- フリードリヒ・フォン・ヴランゲル (1877年没)
- ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル (1877年没)
- アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー (1877年没)