伝記
カールマン(カールマン2世)は、830年頃に生まれ、880年に没したカロリング朝の東フランク王である。ドイツ人王ルートヴィヒと、シュッセンガウ伯ヴェルフの娘ヘンマの長男にあたる。生年は不明だが、828年か830年ごろとされる。名は、741年から748年にアレマンニアを治めたカロリング家の最初のカールマンにちなみ、父がアレマンニアの支配を図っていたことと結びつけて考えられている。
若いころから軍事に携わった。840年から843年の内戦では、父が叔父のロタールやシャルル禿頭王と争うなか、842年にバイエルンとアレマンニアの援軍を率いてヴォルムスの父のもとへ駆けつけ、父や叔父シャルルとともに別の叔父ロタールと戦った。これが記録に残る最初の公的な登場である。後にザンクト・ガレンのノトカーは、衰えゆく王家を嘆きつつ、彼を「最も好戦的な者」と呼んだ。848年10月、レーゲンスブルクの父の会議にも出席し、国境防衛の功でプリビナが報われた際の証書では、聖職者に次いで世俗の有力者の筆頭に署名している。840年代にはバイエルン伯ラトルトの娘リウトスヴィントとの間に関係を持ち、850年ごろに庶子アルヌルフが生まれた。この子が後に東フランク王となる。アルヌルフという名は、王家の祖であるメスの司教アルヌルフに由来しながら、在位した王の名に使われた例がなかったため、庶子の長男にふさわしいと選ばれたと考えられ、二人が正式な夫婦でなかったことを示す有力な証拠とされる。860年ごろ、アルヌルフは従兄弟のフーゴーとともにコブレンツの祖父の宮廷にいた。軍事教育を受けていたとも、父たちの行いを抑える人質であったともみられている。861年以前にはノルトガウ伯エルンストの娘と結婚したが、子はなかった。
856年、父は彼をカランタニアの統治者に任じて初めて統治に関与させ、857年ごろから父の証書の証人となり、858年にはモラヴィアへの遠征軍を率いた。しかし861年、南東辺境の諸司令官を父の同意なく追放して自分の腹心に替え、862年には大モラヴィアのラスティスラフ側につき、南東の諸地域を押さえて、バイエルンのイン川にまで進んだ。和解は失敗し、863年に父が子の領地へ攻め入って服従させ、身柄を拘束した。864年に脱出してカランタニアへ戻り、支持者に迎えられたが、父が南へ向かうと、会見して和解した。父に服従する代わりに、東の辺境の統治を認められた。869年には辺境の状況を伝える父宛ての書簡が残っている。870年、スヴァトプルクがラスティスラフを捕らえて引き渡し、続くフランク軍の侵攻ではモラヴィアの大司教メトディオスも捕らえられて彼のもとに送られた。871年にはスヴァトプルクをも捕らえたとされる。
従兄である皇帝ルートヴィヒ2世は、872年に彼を帝位継承者に定めていた。しかし875年に皇帝が没すると、叔父の西フランク王シャルル2世が教皇ヨハネス8世によって皇帝とされた。876年、父の死を受け、弟のルートヴィヒ3世、カール3世とともに遺領を分け、バイエルンを継いだ。877年にシャルル2世が死去すると、東フランク王国の君主として初めてイタリア王の称号を得た。イタリアを実際に征服したのは877年である。
879年、彼は病を得て身体が不自由になった。卒中だった可能性が指摘されている。そこでバイエルンの王位をルートヴィヒ3世に、イタリア王位をカール3世に譲り、翌880年3月22日に没した。庶子アルヌルフは、後に東フランク国王となった。
同じ年に亡くなった人物
- ブルン (ザクセン公) (880年没)
- ベルナール・ド・ゴティ (880年)
- Fatima al-Fihriya (880年)
- アンスガルド・ド・ブルゴーニュ (880年代没)
- 在原業平 (880年没)
同じ地域に関係する人物
- フーゴー・ユンカース (1935年没)
- ヨハン・カスパール・ケルル (1693年没)
- カール・テオドール・フォン・ダールベルク (1817年没)
- ドラジェン・ペトロヴィッチ (1993年没)
- Sophie of Brunswick-Luneburg (1639年没)