伝記
フランツ・グリルパルツァーは、1791年1月15日にウィーンで生まれたオーストリアの劇作家である。父は弁護士で、ナポレオンの侵攻で財産を失ったとされる厳格な学究肌の人物であり、ヨーゼフ2世時代の自由主義の伝統を堅く守った。母アンナ・フランツィスカは神経質で感情の高ぶりやすい女性で、ソンライトナー家の出身だった。父はフランツを法律家にしたがり、1807年にウィーン大学の法学部に入学した。2年後に父が亡くなると、一家は苦しい状況に置かれ、母と3人の弟を養うため、勉学のかたわら家庭教師をして生計を支えた。1811年に学位を得た後、貴族の家で家庭教師を務め、役人として財務関係の役所に勤め始めたが、その年は1814年とも1813年とも伝えられる。
1816年、ブルク劇場の監督ヨーゼフ・シュライフォーゲルと知り合い、その指導を受けて処女作『先祖の女亡霊』を執筆した。1817年にブルク劇場で上演されて成功を収め、以後は役人勤めを続けながら劇作家としての活動を始めた。1817年に弟の一人が入水自殺し、1819年には母が精神錯乱のすえ自殺するなど不幸に見舞われ、この時期には従兄弟の妻との不倫関係に陥ったという。『サッフォー』、『金羊皮』、『主人の忠僕』、『海の恋波の恋』などの劇作品を執筆して、成功を収めた。熱烈なヨーゼフ主義の信奉者だった彼は、1819年のコンコルダート締結に反発し、教皇ピウス7世を揶揄する詩『カンポ・ヴァキーノ』を発表したため、フランツ1世の不興を買った。要注意人物として作品が検閲の対象になったという。1827年のベートーヴェンの逝去の際には追悼の演説を行っている。
官吏としての才能はほとんどなく、地位は独立を保つための手段にすぎないと考えていた。1832年に宮廷資料室長に任ぜられ、創作に十分な時間を確保できるようになったが、1838年に執筆した喜劇『嘘つきに災あれ』のブルク劇場での初演が不評に終わったのを契機に、公的な作品発表をやめた。以後に書いた戯曲はいっさい出版、上演を認めなかった。静かで思索的な性格で、社交を避け、生涯独身であった。見知らぬ人には冷たく遠い人に見えたが、好きな相手との会話では生き生きした素顔が現れたという。旅を好み、ヨーロッパの主要な国々を訪れた。劇を書く前には、描こうとする時代の精神をつかむために懸命に勉強したとされる。
その後、ほとんど同時代の記憶から消えかけたが、崇拝者のハインリヒ・ラウベがブルク劇場に就任し、忘れられた作品を上演して、その成功は即座で深いものだった。本人も驚くほど、当代で最も人気の作家となり、ゲーテやシラーと並び称され、オーストリアの国民詩人と讃えられた。1848年の三月革命ではヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える詩を発表し、愛国詩人としてもてはやされた。1850年にはマクシミリアン大公から、詩を添えた手紙が月桂樹の一枝とともに届いたのをきっかけに交流が始まった。後にマクシミリアンがメキシコ皇帝になると、グアダルーペ十字勲章を授けられた。全集出版の企画にも応じないまま、80歳の誕生日には各階層が敬意を表し、1872年1月21日に世を去った。葬儀は盛大で、当初はヴェーリング墓地に葬られたが、現在はヒーツィング墓地に眠っている。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ユーエル (1872年没)
- パーヴェル・キセリョフ (1872年没)
- ウィリアム・ウェントワース (1872年没)
- ゲオルグ・ルートヴィヒ・フォン・マウラー (1872年没)
- ジャック・バビネ (1872年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー (1688年没)
- イグナーツ・フォン・ザイフリート (1841年没)
- 天野之弥 (2019年没)
- ヨセフィン・スヴォボダ (1924年没)
- カール・モル (1945年没)