伝記
ロドヴィコ2世は、九世紀中ごろのイタリア王で、ローマ皇帝でもあった人物である。825年に生まれ、875年8月12日に没した。ルートヴィヒ2世の名でも呼ばれる。中部フランク国王で皇帝のロタール1世と、トゥール伯ユーグの娘エルマンガルドとの間の長男で、855年までは父の共同王、共同皇帝であった。
839年にイタリア王とされ、844年6月15日に教皇セルギウス2世によってローマで戴冠した。850年には教皇レオ4世により、ローマで共同皇帝としても戴冠している。スペイン語版によれば、実質的なイタリア王となったのは850年の皇帝戴冠の後で、851年には独立して国を治めており、この年にイタリアの貴族の娘エンゲルベルガと結婚した。日本語版では、スポレート公アデルキ1世の娘とみられる女性で、二人の娘をもうけた。エルマンガルドは後のプロヴァンス王ボソの妃となり、ギーゼラはブレシアの女子修道院長となった。855年9月、父ロタール1世は死に際して中フランク王国を三人の息子に分け与え、ロドヴィコはイタリアの統治権を受け継いだ。単独の皇帝となったものの、帝国全体に皇帝としての権威を示すことはできず、イタリアでの統治も北半分にしか及んでいなかった。
在位の大半は南イタリアのイスラム軍との戦いに費やされた。839年以降、ベネヴェント侯国では継承争いが起こり、傭兵として雇われたイスラム教徒がバーリにイスラム教国を樹立した。846年にはイスラム軍がローマに侵入して略奪した。ロドヴィコは軍を集めてローマを救おうとしたが、敵はその知らせを聞いて退いたという。847年にイスラム教徒をベネヴェントから追い払い、849年の調停でベネヴェント侯国を二つに分割して継承問題を解決した。だがその後もイスラム軍との戦いに追われた。871年にはバーリを奪い返したが、その戦いには東ローマ皇帝バシレイオス1世の協力が必要で、873年に南イタリアにおけるバシレイオス1世の宗主権を認めた。
領土をめぐる動きもあった。スペイン語版によれば、856年の分割でイタリア以外の領土を得られなかったことに不満を抱き、857年には叔父の東フランク王ルートヴィヒ2世と結んで、弟ロタール2世と叔父シャルル2世に対抗した。しかし858年に教皇ニコラウス1世の選出を確実にすると、弟と和解した。855年の父の分割で、ロドヴィコは弟のロタール2世、シャルルと並んで相続した。863年、ブルグント南部とプロヴァンスを相続していた末弟シャルルが跡継ぎなく死去すると、その遺領はロドヴィコとロタール2世の間で分けられ、ロドヴィコはアルル、エクス、アンブランの各司教区とプロヴァンス王位を得て、イタリア王国に併合した。864年には、ロタール2世の離婚問題をめぐって教皇ニコラウス1世と対立し、軍を率いてローマへ入ったが、熱病にかかって和解し、町を去ったという。869年にロタール2世が嫡出子なく死んだときには、イスラム軍との戦いでイタリアを離れられず、その遺領ロタリンギアは叔父の西フランク王シャルル2世に奪われた。その後、東フランク王ルートヴィヒ2世も相続権を主張し、870年のメルセン条約で二人が分割した。
875年8月12日、男子の跡継ぎのないまま、イタリアのゲーディで世を去った。後継者には東フランク王ルートヴィヒ2世を選んでいたが、イタリア王国とローマ皇帝位は、教皇ヨハネス8世の支持を得た西フランク王シャルル2世が獲得した。
同じ年に亡くなった人物
- Muhammad II of Ifriqiya (875年)
- ムスリム・ブン・ハッジャージュ (875年没)
- セドゥリウス・スコトゥス (875年(推定))
- テウトベルガ (875年)
- Ado of Vienne (875年)
同じ地域に関係する人物
- アゼリオ・ビチーニ (2018年没)
- Girolamo Romanino (1562年没)
- フェルディナンド・ベルトーニ (1813年没)
- ベネデット・マルチェッロ (1739年没)
- Umberto Zanolini (1973年没)